Mixi, Facebook, Twitter, Google+, LinkedIn… 「ソーシャルメディア元年」と呼ばれた2010年頃から、続々とお茶の間に浸透していったソーシャルネットワークサイト。そして2ちゃんねるからWikipedia、@cosmeまで、一般の参加者がコンテンツを編集することによって成立するCGM【Consumer Generated Media】の勢いは、誰しもが認めるところとなった。
とりわけ2011年は、2月のエジプト民主革命におけるFacebookを使った動員や、東日本大震災後の情報経路としてSNSの活用が話題になったこともあり、ソーシャルメディアはマーケティング業界を含む様々な場所で旋風を巻き起こし続けている。
様々な人が様々な側面からその影響力を語る中で、ソーシャルメディアは「社会を変える」「企業を変える」「組織を変革する」ものとして、多くの人々の語気を荒くさせ、ネットや活字の中を扇情的に踊ることになった。
ソーシャルメディアが生む「フラットな社会」や「フレキシブルな組織」は、さも人類史上の大転換かのように喧伝され、かつて無い組織像、社会像がいたるところで夢想されている。
メディアは社会の夢を見る
しかし、過去の歴史は、こうした熱い議論にいとも簡単に冷や水を浴びせてくる。
実はこうした議論は、情報技術が急速に発展した60年代以降ずっと、つまり約50年間ずっと繰り返し現れてきた。半世紀もの間、「メディア/技術が社会を変える」型の言説は先進工業国を中心に世界中でなんども繰り返されてきたのだ。
ラジオ、テレビなどのマスメディア、そして「ニューメディア」と呼ばれたビデオテックスやマイコン、そして携帯電話やパーソナルコンピュータ、World Wide Webなど、新たな情報技術、情報システムの誕生はことごとく「社会を変える!」と言われてきた。
かといって、繰り返される情報社会論に対してそうした歴史を示し、議論の梯子を外すことが本エントリの目的ではない。その梯子外しは結局、メディアと社会の関係について「変わったこともあれば変わってないこともあるよね」といった程度問題で議論を終わらすか、「テクノロジーの流行に踊らされないように」といった半端な結論を導きがちだ。
メディアと社会の知識社会学
このエントリの焦点はそこではなく、「〈メディアが社会を変える〉とずっと言われ続けるのはなぜなのか」という点にある。「社会を変える」の謳い文句がなぜ繰り返し現れるのかを、そもそもの「社会の問題」として照らし返すことが目的となる 。
ちなみに、このように事象そのものではなく、事象に対する人々の知識や認識、言説を考察の対象とする分野を社会学では「知識社会学」と呼ぶ。
ここで、先の見通しを良くするために、結論的なことを前もって述べておくことにしよう。
Ⅰ.情報社会論のこの「お家芸」の骨子にあるのは社会を情報技術のアナロジーで語ることによって「社会の不透明さ」を「技術の明確さ」で埋め合わせる、という構造であり、
Ⅱ.それは繰り返し現れてくるのは、「技術発展による進歩」という近代産業社会そのものが持つ性質によるものである。 |
まずこの前編では、Ⅰ. の論点から論ずることにする。
技術と社会のアナロジー
さてまずは、情報社会論としてどういったことが言われているか確認しよう。新しい技術と社会についての語りでは、例えば次のような言い回しがされてきた(されている)。
・「コミュニケーションが分散的になり、ネットワーク社会が訪れる」
・「階層的な社会/組織から、柔軟でフラットな構造を持った社会/組織へと変化する」
・「時間と空間が縮減され、世界全体がコミュニケーションによって一つになる」
読者の方も近年のソーシャルメディアを語る議論の中でこうしたフレーズに覚えがあるだろうと思う。
しかし、これらの言葉は60年代から50年間、情報化社会を語る言葉の中でほとんど変わらず繰り返されてきたものである。60年代にはメディア論の始祖マーシャル・マクルーハンが「地球村Global Village」という言葉で一つになった世界イメージを提出していたし(Mcluhan 1964=1987)、電話やラジオが発明されたときにはすでにそれらが「ネットワーク社会」をつくると考えられていた。
問題は、なぜこのように同じような内容が新たな情報技術が現れるたびに繰り返されるのか、である。
技術と社会のアナロジー――大型計算機からネットワークへ
その理由は、情報社会論が【社会のモデル】を【テクノロジーのアナロジー】で示した上で、【テクノロジーの変化】を【社会の変化】として語ってきたことにある。(Ⅰ. )
例えば、情報社会論において、情報化した社会はしばしば大型計算機や「システム」のモデルで例えられてきた。
あらゆるモノゴトが情報化(デジタル化、ビット化)し、その情報を中心に配置された大型計算機が集中的に管理しデータベース化する社会。
そして、大型計算機の性能が向上し、完璧な処理機能と正確さを実現すれば、大型計算機に例えられてきた社会の方もより完全に制御されたシステム社会として「変化」することになる。70年代までの情報社会論はこうしたシステム制御された電脳社会を基本的な未来社会のイメージとして提起するものが多かった。
だが、そうした完璧にシステム制御された電脳社会が実現へと至る前に、情報社会論はその夢にさっさと見切りをつけ、次のフェーズへと移ってしまう。
80年代以降、小型ワークステーションやパソコン、携帯電話に代表される小規模で個人向けのメディア情報テクノロジーの登場により、情報社会を語る流行のキーワードは大型計算機から「ネットワーク」へと変化した。その流れは個人と個人の分散的なコミュニケーションを可能にするインターネットの登場でさらに拍車がかかり、現在世間をにぎわすソーシャルメディアもその線の延長上に位置している。
だが、そこで語られる内容の形式は、階層化したシステム社会の語られ方を繰り返す。
従来の社会を大型計算機のような階層的で集権的な情報技術で例えておいて、情報技術の方が変化すれば(ネットワーク化すれば)それに合わせて社会の変化した(ネットワーク化)が起こるかのように喧伝する。
こうして「新しいメディアによって社会のネットワーク化が進む」といった文言は、「新メディア」の部分を「携帯電話」「パーソナルコンピュータ」「Web 2.0」「ソーシャルメディア」などの様々な情報技術に置き換えながら、繰り返された。
技術アナロジーの困難
しかし、集中型の大型計算機にしても分散的なネットワークにしても、情報技術のモデルの明解さ、理解しやすさと比べたとき、現実の社会ははるかに複雑である。
大型計算機のように末端と中央に二分される集権的な階層社会が存在したことがないし、コンピューター・ネットワークのようにバラバラに分散した社会構造が実現したことも歴史上一度もない。大型計算機もネットワークも「社会」を表すアナロジーとしてはあまりに大雑把であり、イメージとしても曖昧に過ぎるものだ。
だがメディア社会論・情報社会論は、
(2)技術が変化するにつれ社会も変化する、という論理を繰り返す。
むしろ、曖昧で実態が定かでないからこそ、技術のアナロジーは「将来はこうなって欲しい」という願望に引きずられたまま、社会の姿へと強引にあてはめられやすい。
たしかに、複雑で不透明な社会の構造に比べれば、情報技術は見えやすく、イメージしやすい。将来の動向も社会に比べれば予想がつきやすく、実際に技術を用いている具体的な場面もすぐに想像できる。
今や誰しもがEメールやSNSや携帯電話を使い、ラジオやテレビの視聴を体験している(すこし前の世代なら、パソコン通信やポケベルを〈新技術〉として経験してきた)。情報技術を社会のアナロジーとして使うことは、社会を具体的に分析する代わりに、そうした「テクノロジーの明解さ」を持ちだし、「社会を理解した気になりたい」という欲望の現れでもある。
論理を逆さにしてみれば、現代社会というのは、「社会をもっと明確さに捉えたい」という欲望を不断に喚起しつづけるような、漠然とした不安感を抱かせる不透明な社会とも言えるかもしれない―――。
今回、ここまでのエントリでまずⅠ.の論点、つまり情報社会論の論理的な骨子(とその怪しさ)について述べてきた。
続くⅡ.の論点は、「技術・メディアが社会を変える」という繰り返しの言葉が我々に新しさと魅力を感じさせ、また繰り返されることになるメカニズムについてである。その所以を次回のエントリ〈後編〉で考えてみたい。
ⅰ) 今回のエントリ執筆にあたって大きな参照点としたのは佐藤俊樹著『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ)である。メタ情報社会論の代表的名著であり、1996年の刊行にも関わらず2010年に補論を付されて『社会は情報化の夢を見る』として河出文庫から文庫化された
【参照文献】
McLuhan, Marshall , 1964, Understanding Media: the Extensions of Man, (=1987,栗原裕・河本仲聖訳『メディア論――人間の拡張の諸相』みすず書房.)
佐藤俊樹,1995,『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ)
投稿者プロフィール
最新の投稿
社会学のすゝめ2015.01.07第37回「現代の〈家族〉の行方―「高齢化家族」編」
社会学のすゝめ2014.12.03第36回「現代の〈家族〉の行方―「少子化」現象編」
社会学のすゝめ2014.10.29第35回「現代の〈家族〉の行方(前篇)―近代家族という『形』」
社会学のすゝめ2014.08.27第34回「現代社会は〈複雑〉か〈後編〉」