株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児
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本連載「社会学のすゝめ」も連載第33回を数えるところまで来た。これまで一部の読者の方々から激励のお言葉をいただきつつ、実務にまるで活かされそうにない社会学についての拙筆を滑らせて来た。
「平均」「因果とは何か」「会話分析」「老人」と、調査と社会学の周辺に散らばるトピックを思いつくままに拾い上げてきた本連載だが、実はこれまで狡猾にも回避し続けてきた話題がある。「社会とはなにか」という問いだ
この話題は社会学にとっても、そして社会学の「すゝめ」と厚顔にも名に冠した本連載にとっても核心的な問いのように思えるが、どうも扱うのに気後れを感じる問いでもあった。
われわれが「社会の中に生きている」という事実は、容易に容認できる気がする。ある特定の社会が「どんな社会か」という問いにも十分に有効性はあるように思われる。しかし、「社会とは何か」という問いは、どうにもつかみどころの無い問いのように感じられてしまう。
その問いは、社会学においてもずっと頭痛のタネであり続けてきた。一足飛びで述べてしまえば、社会学においても「社会」という概念に明確な定義は存在しない。例えば、今筆者の手元にある弘文堂「社会学辞典」の「社会」の項目を引いてみよう。そこには見田宗介による「定義」というよりも「解説」が4千字近い口を大きく広げている。
社会学における「社会」の定義の困難。これが「何をやっているかよくわからない」「なんでもあり」としばしば言われてしまう社会学の学問としての曖昧さの由縁の1つだろう。
■現代社会はどんな社会か、という問いについて

しかしそもそも、社会学者の他に、「社会とはなにか」という問いに直接的な関心を寄せる人がどれだけいるだろう。社会などという宙に浮いたような概念に身近さを感じる奇特な人というのは、そもそもあまり想像できない。「社会とはなにか」という高すぎて雲に消えそうな壁を直接に攻めるよりも、ここではもう少し開いた門の近くまで迂回したアプローチをとりたい。
そこで、少し目先を変えてみる。さきほど「どんな社会か」という問いには有効性があるように思う、と述べた。
こちらの問いのほうがより多くの方の興味を引きそうではないだろうか。実際、テレビでも新聞でも、床屋でもマーケティング・リサーチの現場でも、「現代の社会はどんな社会なのか」という問いは発せられているし、喧々囂々の議論は続けられている。
では、そうした現場で、現代社会とはどんな社会として語られているだろうか。それを形容する言葉として最も語られている言葉は一体何だろうか。
統計的に調べてみたわけではないが、直感的には「複雑」であるように思う。(※「危険」「多様」も候補かもしれないが、「多様」は「複雑」の亜種として考えられるし、「危険」については前にこの連載でもとりあげたことがある)。
「価値が多様化した現代社会では…」「複雑な人々の生活を…」「今の複雑な社会では…」云々。今、様々な場面で、人々の社会生活について、価値意識について、属性について、政治について、多様さや散らばり具合を強調する言葉は枚挙に暇がない。「複雑さ」は、現代社会を・そしてそこに生活する生活者を描写するにあたっての最も基底的なワードの一つとなっていることは、定量的な精査を待たずとも一定の首肯性を帯びるように思う。
■「複雑さ」と「単純さ」

しかし、今の社会について巷で言われるこうした「社会の複雑さ」に、何か不穏なものを感じるのは筆者だけだろうか。「現代社会は複雑である」と繰り返される言質には、何か重要なものを取りこぼしている、穴の空いた柄杓のような感覚を覚えてしまう。
そこで今回は、ドイツの社会学者・ニクラス・ルーマンによる「複雑性」の議論、さらにそれを下敷きにした馬場康雄による論に依拠しつつ(馬場1993)、この複雑さ(=複雑性)について少し考えてみることで、「社会」という大きな壁に登る足がかりを探ってみたい。
そのための一歩目としてまず、「複雑さ」の反対項を探ることから出発してみよう。
「複雑さ」の対義語は今も昔も「単純さ」であったようにまずは思われる。ただ、その「単純さ」と「複雑さ」の関係性は時代とともに変化してきたことが指摘されている。簡単に時代を追ってみよう。
今よりもずっと前、中世の西欧社会において、「複雑さ」は、宗教的「神」という統一性のもとに「単純さ」からの派生物として把握されていた。神の「単純さ」を出発点とした「複雑さ」。この関係から思い出されるのは、創世記「バベルの塔」の挿話だ。
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かつて世界中の人々は、同じ言葉を用いて、同じように話していた。
東の方から移動してきた人々は、シンアルの地にある平野を見つけ、そこに住み着くことにした。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言い、当時新しい素材であった煉瓦とアスファルトを使って塔を建て始める。
だが、それを見た主(神)は、次のように言う。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このような大それたことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企んでも妨げることができない。直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 そして、主は人間たちの言葉を互いにわからぬ言語にし、その上でバラバラの土地へと放逐してしまう。そして人間たちは、この町(=バベル)の建設を諦めることとなった。
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ここで、神は「単一で単純」だった人間の言語体系を、「バラバラで複雑な」言語体系へと作り替えたことが言われている。むろん現代の言語史の水準から言えば簡単に反証される内容だが、ここでも「統一性としての神=単純さ」が「複雑さ」の基礎としてあるのが確認できる。
そして時は過ぎ18世紀、カントらによる超越論的哲学によっておこったことは、この「単純さ」と「複雑さ」の立場の逆転だった。
この頃、「世界は、人が直接には把握できないほど複雑である」という今もひろく相続されている想定が広がることになった。当時のドイツを代表する哲学者イマヌエル・カントは、そうした世界(事物そのもの)の複雑さに直面したときの人間の認識の限界を突き詰めようとし、「悟性」と「感性」とに分けたことが知られている。
ニーチェによる「神は死んだ」の宣言を待たずして、そこではすでに、「神」の単一性は前提とされておらず、むしろその複雑性が「世界」を考える上での出発点となっていたのだった。
そして現在、〈複雑性〉の意味論はさらに変貌する現在の「複雑さ」の特徴は、反対項であるはずの「単純さ」の消去という事態にまとめられる。馬場の言葉を引用しよう
「現代における複雑性概念の特徴は、反対項であるはずの単純性そのものが消滅しつつあるということのうちに求められねばならないのである。あらゆる学において対象を分析し再構成する能力が飛躍的に増大した結果、ある研究を構想する際に単純な要素として扱われるものは、単に一時的にそれ以上分解できないとみなされているにすぎないと考えねばならなくなった(馬場1993,25)」。これはつまりどういうことだろうか。
例として、顕微鏡の歴史をあげてみよう。
17世紀初頭、オランダでメガネ職人を営んでいたヤンセン兄弟によって発明された顕微鏡は、その世紀末には300倍の倍率を達成し、人間が眼によって観測できる範囲を大きく拡張することに成功した。
顕微鏡はその後、多くの自然科学の基礎的な機材として用いられつつ、数百年に渡る進化の末、現在では可視光線ではなく電子線を対象にあてる電子顕微鏡の発明とともに、対象を原子レベルの微細さで拡大観察することができるようになっている。
この「拡大(分解)すればするほど拡大可能で、対象の複雑さが増していき」、かつ「現在の単純に見えるものも、一時的にそれ以上分解できないとされているにすぎない」という事態は、あらゆる学問領域において見られる想定となっている。
こうした複雑さの「底の抜けた」状況は、その反対にあるはずの「単純さ」の意味をほぼ消失に近いところまで変質させていく。一見単純に見えるものも、複雑さへと分解しようと思えばいくらでもできる、「複雑さへの可能性」に常に開かれていることになる。このルーマンが「支えのない複雑性haltlose Komplexität」と呼んだこの状況が、現代社会の「複雑さ」という言質にまとわりつく違和感の正体ではないだろうか。
■〈複雑さ〉の現在

上の議論を踏まえると、現在における「複雑さ」の位置価は、きわめて歪んだところまで達している。
「複雑性とはある対象がもつ(そして他の対象はもっていない)属性ではなく、あらゆる対象を観察するために用いられうるさまざまな形式のうちのひとつなのだ、ということになる。(馬場1993,25)」
ここでいう〈形式〉とは、ある対象を観察するときに用いられる図式としての〈区別〉のことだ。
例えば、海の潮の流れを観察するとしよう。潮汐の実態を、大陸との衝突や気圧、風といった要因で変化する「複雑なもの」として観察するとき、「水」という小さな単位は一旦「単純なもの」として把持されよう。だが逆に、「海水」について水素と酸素の化合物としてその性質を微小な水準で「複雑な」ものとして捉えることも十分にありうるだろう。
■〈社会〉は〈複雑〉か

ここにおいて、「複雑性」という概念は、事物そのものにはりついた属性としての立ち位置を剥奪される。
そして、ルーマン(馬場)の議論が正しいとするならば、「複雑な現代社会」という記述については、どうやら次のようなことが言えそうに思う。
複雑な社会、という記述(言質)は、ある意味で正しく、またある意味で正確さを欠いている。
「底の抜けた複雑さ」が支配する現代において、「複雑さ」は、観察の〈形式〉の一つでしかない。複雑なもの/単純なものという区別は、その世界の属性を記述する言葉ではなく、観察における形式、つまり物を見る・語るときに用いられる「A、もしくはB」という図式的な区別、より簡単に言ってしまえば「観察の方法(の一つ)」として捉えたほうが適切のようだ。
そして、「現代社会の複雑さ」について最初に筆者が表明した違和感は、その言質がこの「不正確さ」の側を素朴に消去してしまっているところに由来するだろう。「複雑さ・という単純さ」によって、現代社会を統一的に把握できているかのような錯誤、そしてその錯誤を看過してなお社会を「複雑」と状況定義することで、別種の「言いたいこと」を引き連れてきてしまうような感覚だ。
こう考えてみると、現在の社会を誠実に観察しようとするならば、世間にあふれる「複雑さ」の言説は、「社会」という主題(テーマ)に対して、「複雑だ」としてしか記述・表象することが〈できなくなった〉社会の状況を示している、と見たほうがよいのではないか。
ここで、わたしたちは、記述される対象としての社会と、記述する主体としての〈社会〉、二つの「社会」へと対象を切断しながら、「社会とは何か」という最初の問いに帰ってくることができた。
■そして「社会」の問いへ

先ほど、ニクラス・ルーマンの名前をだした。1998年に逝去したこのドイツの社会学者は、社会学理論の中でも極めて異質・かつ難解な理論を提唱した社会学者として、そして社会学のグランドセオリー(一般理論)の構築を目指したおそらく史上最後の社会学者として知られている。
そしてルーマンによって、「複雑性」の概念は、本エントリの最初に掲げた「社会とはなにか」という問いへと直接に接合されることになる。
予告として述べておけば、ルーマンが行ったのは、社会を〈複雑性を縮減するシステム〉として捉える、「社会システム理論」の大幅な刷新である。〈システム〉とその外部にある〈環境〉の区別を、この〈複雑性〉の落差を中心に構築しなおしたルーマンの仕事の玄関口まで来たところで、今回は紙幅の限界となる。

【主な参照文献】
ニクラス・ルーマン、『社会システム理論(上)(下)』(恒星社厚生閣)
長岡克行、2006『ルーマン/社会の理論の革命』(勁草書房)
馬場靖雄、2001『ルーマンの社会理論』(勁草書房)
※ルーマンのKomplexit?tを「複雑性」と訳すか「複合性」と訳すかどうかは、日本のルーマン研究者の間でも定まっていない。システムを構成している要素の数を「複雑性」、要素間の関係の数にかかわる事態を「複合性」と呼ぶ向きもある(長岡2006: 91)が、ここでは先に挙げた「複雑さ」を煽る言説についての議論との接続のよさを考慮し、「複雑性」を暫定的に採用した。