企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

「社会の心理学化」ということが言われはじめてから、長い時間がたった。


精神科医、斎藤環による『心理学化する社会』が上梓されてから10年。この著作の中で氏は、社会のあらゆる場面で心理学的なものの求心力が強まっていることを「社会の心理学化」と呼んだ。


この著作で氏は、テレビ・ドラマ・音楽・映画・小説などの分野で「マザコン」「トラウマ」「ストレス」「心の闇」「プロファイリング」といった心理学的な言葉が飛び交っている状況を、カウンセラー・臨床心理士・心理学者・精神科医など心を領域とする専門家の活躍の場が広がっている状況とむすびつけながら、心理学的な発想が現代社会全体に蔓延していることを指摘した。「ランボー」から「永遠の仔」まで多様なエンターテイメント作品をあげながら、俗流心理学・俗流精神分析の矛盾や誤りを論難し、各所で話題になった著作である。


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さて、この著作刊行の2003年から10年経った現在はどうだろうか。


実は、『心理学化する社会』が出た当時の日本は、「少年による凶悪犯罪」が大変に耳目を集める話題となっており、この著もそうした文脈から現れてきた。少年犯罪は毎朝ワイドショーを賑わせ、少年犯罪ブームとでも呼べる状況であった。暴走する少年たちの心をわかった「つもり」になるために、「心の闇」のような理解のフレームワークが各メディアで要請された。そこで召喚されたのが精神科医であり、心理学者であり、心理学的発想による「トラウマ」の物語であったわけだ。


少年犯罪ブームは既に過去のものとなった感のある昨今だが、そこで要請された心理学的な発想まで消え失せたかというと、どうも当時の状況とあまり変わっていないように見える。沸騰的な状況からは落ち着いたように見えるものの、社会の心理学化はおおよそ「定着した」と言っていい。


それは、マーケティング業界に目を転じてみても同じである。マーケティング論のベースの多くを占めるのが心理学のバックボーンであり続けていることは誰しもが認めるところであろうし、行動経済学といった経済学と心理学の融合した学問分野が一種の流行的にもてはやされている現在を見ると、「社会の心理学化」は現代社会全体を覆う長期的・構造的な変化であろうと思えてくる。


マーケティング業界に身をおきながら「社会学のすゝめ」なるタイトルで連載を続けている筆者としても、この状況は複雑な心境である。マーケティング理論における社会学の役割はもう少し顧みられた方がいい、というのは筆者の個人的な思いではあるのだがしかし、こうした状況を社会学対心理学という対立に落としこんでしまうのはあまりに不毛なことだ。それよりも、社会における心理学の跋扈は、社会学的な観察対象としてきわめて興味深いということに目を向けてみたい。


そこで、今回と次回のエントリでは、「心理学化する社会」を社会学的に観察することで、「心理学的なものが求められる社会の機制を透かし見ることを試み、それと同時に、心理学と社会学の立つ場所の違いを際だたせられればと思う。



■2つのキーワード「流動性」と「再帰性」


まずは、ややマクロな話から入ろう。
現代の自己をめぐる状況のキーワードは2つにまとめて整理することができるように思われる。
その2つのキーワードとは、「流動性」「再帰性」である。
  

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【流動性liquidity】とは、土地、身分、家柄、血縁、言語、性別などの固着の社会制度の強制力が弱まっていくことで、人々が営む社会的行為の繋留点が失われていくことである。後期近代におけるこうした特徴を、社会学者ジームクンド・バウマンは、液状化した近代、『リキッド・モダニティ』と呼んだ。こうした流動性の高まりは、そうした社会を生きる自己にとって、職場、家庭、友人関係など多くの場面で「自分である必要性」が減すること、自己の入れ替え可能性の高まりを帰結する。

【再帰性reflexivity】とは、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズが重視した概念で、現代社会学の議論で頻出するキーワードでもある(※1)

上のような流動性の高まりで、社会制度が及ぼす行為への強制力が失われていく。これは、人種差別の撤廃やウーマン・リブ運動、経済的な階層移動率の上昇、学習機会の均等化など、社会の多くの場面でしがらみからの「解放」と相対的な「自由」を生み出した。だがそれは同時に、行為を「自己決定」しなければならないシーンの増大を意味していた。

そうした行為決定の場において、それまで指針を指し示してくれていた/もしくは選択肢自体を見えなくさせていた共通前提が揺らぐことで、〈行為自身がもつ前提〉がつねに問い直されるようになる。
現代社会学では、この問い直しの契機を再帰性reflexivityと呼ぶ。行為における原因と結果が、常に反転可能な状態に置かれること。地方の家業や土地にしばられず、自由に都会にでて働くことができる社会は、「なぜ都会にでて働くのか」「なぜ田舎にとどまるのか」という行為自身の前提の問い直しを常に突きつけてくる社会でもあるわけだ。

ここで、シェークスピアの代表的戯曲、「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーのシーンを思い出してほしい。

――おおロミオ、あなたはどうしてロミオなの――


このジュリエットの高名な台詞で2回目に呼ばれる「ロミオ」は、単なる名前では無い。それは、ロミオが属する「血筋」「身分」「経済」「人脈」「歴史」といったものを背負った固有名詞であった。その名は対立する貴族のお嬢様ジュリエットとの「違い」を一身に表象する名前であったのであり、その「差分」が自由恋愛の「妨げ」として確固たるをもっていた時代だからこそ、シェークスピア的な説話構造が機能していたのだ。


〈再帰性〉〈流動性〉。一旦提出したこうした2つのワードを軸にしつつ、より具体的なレベルで、戦後日本における自己を取り巻く状況をざっと復習してみよう。


■日本社会における〈流動性〉と〈再帰性〉

戦後日本社会における社会変容の1つ目のターニングポイントは、戦後高度成長期とともに50年代後半から始まる「団地化」である。

ここで団地化という言葉で示しているのは、地方から都市への流入超過という人口構造と、団地という新しい舞台における生活構造の変化である。
最も尖鋭的な都市・東京を例にとると、1955年から1970年頃まで東京へ毎年30~40万人の転入人口の超過が続いていく。この新たな人口をいれる箱として、郊外団地がぞくぞくと建設されていった。「団地族」という言葉で示された新たな生活スタイルの登場は、ムラ社会的なご近所付き合いを不可能にする「地域社会の空洞化」とともに、家庭生活の基礎的な機能が両親と子ども関係に閉じられていく「核家族化」をもたらす。

醤油を貸し借りする田舎の濃いご近所付き合いから、隣家に誰が住んでいるのかもよく知らない地域の人間関係の希薄化と、核家族への親密圏の閉じられへの変化である。この「地縁からの解放」と「血縁の縮減」は、日本社会の流動性を飛躍的に高めることにつながった。田舎的な地域や親戚・血筋間の濃密なコミュニケーションを鬱陶しいと感じる「都市的心性」が育まれることになる。
 
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老朽化した最初期の団地「荻窪団地」


そして、その後の2つ目のターニングポイントとして、80年代から始まる「メディアの個人化」があげられるだろう。

それまで居間の共同空間に置かれていた電話・テレビが個室に置かれだすのが80年代。テレビ、ラジオ、新聞など、多くの核家族に共同前提を提供してきたマス・メディアは機能的・物質的・コンテンツ的に分散し、個人によって向けられ、個人によって享受されるものへと変化していく。それは、団地族を支えていた「ホーム・スウィート・ホーム」というロマン的幻想の崩壊にも寄与したし、核家族に限局された親密圏が居間という共同空間の外に漏れ出していく土壌を準備した。

そして、そのメディアの個人化の流れは、「パーソナルコンピューター」という極個人化したメディアとインターネットという無限の仮想世界への開かれによって完成する。ここにきて、「世界」と「個人」は、その間にあった地域や家族や世間といった媒介物をのぞいて、直接対峙することになる。
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Microsoftより95年に発売されたWindows95。
これ以降、日本のパソコン所有率は急上昇していく。

世界と対面する孤立した個人、という構図。自己決定を迫られる自己にとってそれは、「行為の前提の問い直し」――再帰性を処理するための回路を、「自己」にしか求められなくなってくるということを帰結する。

社会学では、そのことを、自己の「内的準拠self-reference」と呼ぶ。自己の行為の理由を自己の中にしか求められない、完全に自己内で完結した論理によって、行為と自己の輪郭を決定していくしか無い状況。この状況が、消費という社会行為に投射されたのが、以前にこのメルマガでもふれた"You are what you buy."の論理である。


■ロミオとジュリエット――その後

先にあげたロミオとジュリエットのシーンにおいて、ジュリエットの台詞は次のように続いていた。

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 イギリスのフォード・マドックス・ブラウンによる絵画「ロミオとジュリエット

――わたくしにとって敵なのは、あなたの名前だけ。たとえモンタギュー家の人でいらっしゃらなくても、あなたはあなたのまま。名前にどんな意味があるというの?薔薇という花にどんな名前をつけようとも、その香りに変わりはないはずよ。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって――

社会学的には、この場面は、ロミオという「名前」が背負っていた全ての社会的属性を剥奪し、ジュリエットと2人だけの親密圏へと内閉していく場面と言い換えることができる。

そしてそのとき、固有名が背負っていた社会的属性が剥奪され、「薔薇という花がもつその香り」に暗喩されているような、社会的属性を剥ぎとった「透明な・本当のロミオ(だけがもつ属性)」が呼び出されている。

ただし、このロミオのことを、「社会的属性によって隠されていた(つまり以前からそこにあった)本当のロミオ」という風に読んではならない。「本当のロミオ」という存在の出現可能性は、名前に背負っていた属性を捨てる可能性と「同時に」現れてくる。社会的属性から解放すること=流動性の高まりと、「本当の自己」の発見(要請)は、同時的事態だ。

流動性と再帰性の高まりは、「本当のわたし」なる幻想を呼び起こす。●●家のロミオでも、●●地方のロミオでも、●●社のロミオでも無く、「自己」として意思決定を求められるようになればなるほど、そこには確固たる「わたし」を同定したい、という欲望が湧いてくる。その「わたし」は決して過去から蘇った亡霊ではない。人類の歴史上初めて呼び起こされた、未来にのみ賭けられたファントムなのである。

そしておそらく、現代のロミオは鏡を前にこうつぶやくことになるだろう。

――おおロミオ、わたしは、なぜ、ロミオなのか――


■心理学という自己のテクノロジー

流動性の高まりは、再帰性の高まりを生み、社会的行為の内的準拠を帰結する。
ここまで、戦後日本とロミオの例をとりながら、このことを述べてきた。

そして、そのように肥大化した自己は、それまでと同じように振る舞うわけにはいかなくなる。社会の過剰な流動性に対処するべく、自分自身を管理、統制、コントロールする新しいスキル・方法が求められるようになる。それはそれまでの相対的に非流動的な社会においては要請されなかった「新しい自己コントロールの仕方」である。

フランスの思想家ミシェル・フーコーは近代的自己が自己を統制するその新しい方法のことを「自己のテクノロジー」と呼んだ。そして、予告的に述べてしまうと、現在そこで現れてきているのが、「心理学」というツールなのである


■次回にむけて――自己啓発書の社会学

こうした日本における「自己のテクノロジー」と「心理学」の問題を、より具体的な方向から検証する面白い対象として、「自己啓発書」がある。

ビジネスマンの読者の方々も多く読まれたことがあるであろう「西国立志編」「思考は現実化する」から「脳内革命」「7つの習慣」などのベストセラーとなってきた自己啓発書の歴史は、こうした自己をめぐる社会の機制の変遷を映し出す鏡としてきわめて興味深いものである。

次回のエントリでは、こうした日本における自己啓発書の系譜学を展開した牧野智和による『自己啓発の時代』を一つの参照点としながら、それらと自己と社会が織りなす巧妙なアンサンブルを紐解いていきたい。

【主な参考文献】
斎藤環「心理学化する社会」
牧野智和「自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究」

【脚注】
※1 ギデンズの影響力も伴って現代社会学の教科書に頻出するようになったこの再帰性というキーワードだが、論者によって定義が異なる厄介なワードでもあるので、ここではある程度の単純化を試みた。