企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

私たちの生きる資本主義経済がその端緒と繁栄のフェーズに、不合理な側面が隠されていること。


前回議論した資本主義の端緒に潜む一つの不合理は、「貨幣の起源」であった。貨幣の使用は、「次の人がその貨幣をうけとってくれるだろう」という根拠のない予期「のみに」支えられている、という貨幣の不確かさについて議論してみた。


今回のエントリでは、その端緒の不合理に続き、「繁栄」のフェーズに目を移してみたい。


冷戦後の世界で、ほとんど一枚岩のように盤石な身振りを示しながらグローバル化という新たな段階を迎えている資本主義は、どうしてこれほどまでに発展を遂げたのだろうか。


その問題について、独自の仮説設定からオリジナリティあふれる業績を残したのが、今回とりあげるドイツの社会学者マックス・ウェーバーによる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」である。


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■なにが資本主義を繁栄させたのか


「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」――この長いタイトルを冠された論文をめぐっては、数百、数千の解説と論争がなされてきた。それは、ウェーバーの代表作として刺激に満ちた業績であることの他に、原著の論証スタイルがやや複雑で難解であったことに多分に由来する。なのでここでは、細部を追うことは最初から諦め、できるだけ平易にこの社会学上の古典を紹介したいと思う。


資本主義はどういった社会の、どういった特質によってその繁栄の礎を固められたのか。
この問いに対して実直に答えを用意するなら、それは次のように考えられるかもしれない。
人々の貨幣を求める強い欲望が、活発な営利活動とそれに伴う消費活動を産み、資本主義全体を繁栄させてきたのではないか、と。つまり、貨幣への欲望の強度こそ、資本主義の発展の礎を用意したのではないか、と。


しかし、マックス・ウェーバーが説いたのは、それとは真逆の発想から得られた議論であった。ウェーバーは、上述の論文(以下「プロ倫」と略記する)の中で、活発な消費・貨幣欲とは真逆の、〈禁欲〉の精神こそが資本主義を繁栄させたのだ、という逆説めいた説を提唱したのである。そして、その「禁欲」の精神の源として指さされたのが、表題にもある「プロテスタンティズム」である。


実は、プロテスタンティズム、特にカルヴァン派の教義に「資本主義精神」の萌芽を見いだすことができるという指摘自体は、ウェーバーの時代にはすでに経済学者ヴェルナー・ゾンバルトらによってなされていたところだった。だが、ウェーバー「プロ倫」のオリジナリティは、「利益を追い求めない精神」、それこそが資本主義を活性化させる精神的態度だったのではないか、という問題設定の新規性にあり、ウェーバーのこの論文が長きにわたって繰り返し論争を生んできた所以でもある。



■「需要充足経済」と「営利経済」


人類史を振り返れば、古代エジプト、古代メソポタミア、古代中国、ローマ帝国など、資本主義が発展してもおかしくない歴史上の段階は多くあった。だが、実際資本主義経済が爆発的な高度化を見せるのは、人類史で言えば後半の後半、実に近代に入ってからである。つまり、歴史上のこれらの社会では、かなり高度な技術や文明が発達していたにも関わらず、資本主義を一歩前進させるための「何か」が足りなかったことになる。


ではその何かとは一体なんだったのだろうか。


ここで、整理のために、先にあげたゾンバルトが掲げた「需要充足経済」「営利経済」の2つの区分を用いよう。
前者は人々が抱く具体的なニーズの充足を目的した経済システム、後者は、営利の獲得それ自体を目的とする経済システムである。原始的な貨幣経済から、現在に至るまでの高度資本経済への移行には、前者から後者への移行がなされなければならない。


必要な物を手に入れるだけの必要最小限の労働。これさえあれば人類はこれほど営利活動を進化させてこなくてもおそらく生き長らえることができただろう。「需要充足経済」の段階にとどまっていても、人類総体としての生命の維持には十分だからだ。


しかし、歴史的事実として、近代を迎えた人類はその経済システムの段階から大きく道を外すことになった。貨幣を得るために貨幣を得る、利益確保が自己目的化した「営利経済」の性質を獲得していくことで、資本経済は急激な発達を遂げることになる。組織的かつ計画的な産業経営形態の企業活動のためには、後者の「営利経済」が持つ、営利そのものを自己目的として追い求めていく側面を、経済システムは大なり小なり獲得して行く必要があるのだ。



■資本主義に必要な2つの不合理


ゾンバルトが言うところの「需要充足経済」から「営利経済」への移行。それを個々人のレベルまで落として考えてみると、そこには個人が直面する「2つの不合理」を乗り越えなければならないことがわかる。ウェーバーとは少し言葉遣いが異なるが、以下にまとめよう。


営利経済のための2つの不合理。それは、【1】勤労の意思と、【2】倹約の規範である。


【1】

勤労の意思とは、金銭を得るという労働本来の目的よりも、「働くこと、労働すること」それ自体を目的とした労働意識である。生産力の継続的な向上のためには、必然的に継続的な労働が必要になる。労働者が皆その日暮らしのための最低限の労働のみをするのであれば、中長期の計画性をもった経済活動は困難になる。需要充足の必要「以上に」働く労働力の、安定的な確保がここで必要になってくる。

だがこれは、労働者側から見ればまったくもって不合理なことである。「働くために、働く」という論理は、今から見ても明らかに空転しており、意思として貫徹することは難しいように見える。ピラミッド建設のような権威による強制的労働でないかぎり、勤労の意思は、その不合理さを包み隠すような何かを必要とする。

【2】
生産性向上のために資本が計画的で長期的な投資を行う上で必ず必要になるのは、「富の貯蓄」である。つまり、個人にとっては、稼いだ貨幣をニーズの充足に用いるのではなく、倹約し、節約し、資産として管理することが求められる。しかし、「使うことのない富」も、需要充足経済の消費者にとってはムダなことでしかない。目の前のニーズよりも大きな「何らかの目的」が無ければ、倹約とは個人にとって単に不合理な行為でしかない。

個人に降り掛かってくるこの2つの不合理を乗り越えるための精神性が、どこから調達されたのか。
ウェーバーによれば、それが「プロテスタンティズムの倫理」だったのである。



■ルターによる宗教改革とプロテスタンティズム


まずウェーバーは、本論に入る前の前置きとして、資本主義が比較的高度に発展している地域にプロテスタントが多いことをドイツ・フランスなどの地域別統計を元に傍証していく。


ここで念のためキリスト教の歴史を振り返っておくと、プロテスタントとは、ルターによる宗教改革運動をひとつのきっかけとして、カトリック教会から派生的に分派していったナバプテスト、ルター派、カルヴァン派、ツヴィングリ派などのキリスト教諸宗派の総体的な名称である。
 


上のマルティン・ルターは、贖宥状(罪が許されるとされたカトリック教会が発行し売買した証明書)への批判、ドイツ語旧約聖書の出版などを通じて、世俗化が進んでいたカトリック教会への批判と、聖書の一般大衆への開かれを大きく進めることになった。プロテスタンティズムは、こうしたキリスト教世界の大きな動きの中から生まれ落ち、世界各地に多くの分派を生むことになった。


プロテスタントの数が多い地域に、特に高度な資本活動がなされている。この統計的事実を前にして、ウェーバーはプロテスタントの教義をつぶさに精査していくことになる。



■「予定説」の思想


そこでウェーバーが着目したのが、プロテスタンティズムの中でもカルヴァン派による「予定説」の教義であった。(※)予定説についてここでポイントになるのは、1.「絶対者としての神」の概念、そして2.「原罪」のキーワードだ。


1.
予定説において強調されるのは、絶対者としての神、その意思の不変性である。それは裏返せば、創造者としての神に対する人間の無力を示している。神に創られしものとしての人間は、神の意思に背くことはできず、ただ救済を待つ身として自らを規定する。
2.
「原罪」とは、有名な創世記のアダムとイブの寓話に由来する。蛇にそそのかされ神の意志に逆らって知識の木の実を食べたイブは、楽園から追放される。これが転じて、生まれながらにして人は堕落の罪を背負っている、という教義である。


これらの教義は、旧約聖書に遡れるものだが、ルターによる聖書の翻訳をきっかけとして、プロテスタンティズム、特にカルヴァン派はこれらの教義に立ち返ることを提唱し、信仰の重要性を復活させた。このことが、民衆レベルでの生活態度の変化を生むことになった。


ここから得られた帰結とは、次のようなものだ。


不可避に罪を背負った存在としての人間(原罪説)は、神による救済をただ待つ身にある。そして、救われる者と救われない者は、人間が決定できることではなく、神によって既に決定されている(予定説)。


しかし、すでに決定しているにも関わらず、絶対者としての神は、「誰が救われるのか」は決して教えてくれない。ここでカルヴァン派の信徒たちは次のように思う。「自分は救済される者として選ばれているのだろうか?そしてどうしたら救済の確信が得られるだろうか?」 信徒たちの抱くこうした深い疑念と不安感は、日常生活全般において「自分は救済されるのか/されないのか」「神はこの行為をお許しになるのか/ならないのか」と、神の審判基準と自らの行動を照らし合わせて律していく意識を、常態的に植え付けられることになった


そこで重要になってくるのが、「天職」の概念である。



■天職と「勤労」の意思


ルターのドイツ語翻訳によって、聖書における「職業」は「天職Beruf」として訳され、プロテスタンティズムにとって新しい意味を持たされることになった。


神の救済への不安感に日常生活を浸されたカルヴァン派のプロテスタントたちは、「労働」においても神からどう見られるかを指針とし、自らの行動を吟味していくようになる。合理的に組織された自己の労働、これが神の求める労働の姿であり、信徒たちの「救いの確証」=不安の払拭につながっていったのである。それは、「賃金」といった労働の一義的な結果そのものを目的とするのではなく、「労働」そのものを神の意思に従って目的とする態度に接続されていく


「少なくとも労働時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的――「天職」――であるかのように励むという心情」。この労働意識、「天職」という思想が、資本主義のための第一の不合理を覆い隠し、「勤労」の意思を生み出すことにつながった、とウェーバーは述べたのである。



■「禁欲」と「倹約」の規範


そして、資本主義のために個人が直面する第二の「不合理」、〈倹約〉の規範についても、プロテスタンティズムの教義が働きかけた、とウェーバーは続ける。


絶対者としての神の救済・審判を常に意識するプロテスタンティズムにとって、富を自分のためにムダ使いするような態度は、神から咎められ、救済されぬ者として自己を堕落させる忌避すべきことである。このことについて、教義を精査しながらウェーバーは次のように言う。


「道徳的に真に排斥すべきであるのは、とりわけその所有のうえに休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく『聖潔な』生活への努力から離れるような結果がもたらされることなのだ。」


「人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、(略)その一部を神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは少なくとも危険なことがらなのだ。」


プロテスタンティズムはこのように、勤労によって得た財産についても、神の意向に沿うような管理を規範化していった。娯楽一般についての無用な支出は悪とし、救済の確信を得るために、消費活動の中で自らを律していく態度を身につけていったのである。


そして、その節約の強制的意思は半ば自動的に、投資に運用可能な「資本」を形成していく。資本主義の発展に欠かすことのできない投資を可能にする、資産管理の意識は、こうしてプロテスタンティズムの禁欲的生活から生まれてきたのである。
こうして、2つ目の不合理、「倹約」の規範の持つ不合理も、プロテスタンティズムの教義からくる禁欲の規範によって覆い隠される。


プロテスタンティズムが生み出すことになった「勤労」の意思と「倹約」の規範は、技術よりも人口よりも何より資本主義のステップアップのために必要だった「精神」を、人類史に提供したのである。それはおそらく、初期プロテスタンティズムの指導者であったルターやカルヴァンらの企図することではなかった。「貨幣」が「予期」に支えられていたのと同じように、ここでも資本主義を支えていたのは、確からしい物質性でも、ロジカルな計算式でもなく、不合理さを覆い隠すだけの力を持った人間の「倫理」だったのだ。



■資本は回る


資本主義システムが、プロテスタンティズムの禁欲的精神によってその土壌を創られたことを、ウェーバーの論に従って見てきた。


一度作動し始めた経済システムは、そこに「根拠」を必要としていたことを忘れ流すかのように、自律的に・自己言及的に自ら駆動力を生み出しながら回り続ける。プロテスタント的な教義の影響が全く及ばない場所でも、発展し始めた資本主義経済は、競争の論理を一番のエンジンにしながら周囲を巻き込んで邁進していくことになる。


前回、今回と、冷戦も終わって久しい現在では確固たる前提として回っているようにみえる資本主義経済が、曖昧でおぼろげな「人の精神」や「予期」によって支えられていることを見てきた。経済のように当たり前のように見える事象の背後には、常に当たり前ではないことが控えており、それを「当たり前」のように見せている〈社会〉の擬制があること。このことを実にインパクトのある形で示した「禁欲的精神が資本主義を生み出す」というウェーバーの逆説の紹介をもって、簡単ではあるが、今回の社会学のすゝめとしたい。



【脚注】
※1 ウェーバーはカルヴィン派、敬虔派、メソディスト、再洗礼派の4つに分けて検証しているが、今回は細部にはふれることはできない。