企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児


マーケティング業界で、行動経済学が注目を浴びて久しい。


ダニエル・カーネマンのノーベル経済学賞受賞、そして金融危機をきっかけとして、行動経済学はここ数年のマーケティングトレンドの一つとしての地位を占めた。古典的な経済学の刷新により、マーケティング「市場」においても熱烈に迎えられ、ダン・アリエリーやカーネマンらの著作とともに急激に一般に敷衍した感がある。


予想通りに不合理.jpg

   
一般的に喧伝された行動経済学の発想のコアは次のようなものだ。


人は、これまでの経済学、そしてマーケティング理論で考えられてきたほど、合理的な選択を行う主体ではない。それどころか、時に反理性的にしか見えない選択を行うことがしばしばある。


たとえば、ダン・アリエリーがよく使う有名な事例で言えば、単純に「100円」と表示するよりも、「定価120円のところを100円」と表示したほうが全く同じ商品でも売れ行きが異なる、というようなものが知られている(もちろん売れるのは後者である)。


しかし、こうした行動経済学が驚きを持って迎えられた理由は、一般的なマーケティング理論の多くが経済学をベースに発展してきたことに一因がある。伝統的な経済学が合理的選択をする個人…「経済人homo economicus」のモデルを前提にしていたからこそ、そこには新しさと熱狂が生まれ得た。


しかし、社会学の文脈ではおおよそこのような驚きはない。
マックス・ウェーバーによる高名な【行為の4類型】が、「目的合理的行為」「価値合理的行為」に加えて、「感情的行為」「伝統的行為」と不合理的な類型を含み持つことを諳んじてもわかるように、そもそも社会学の基本的な発想では、人の合理的な選択が行為全体の一部にしか過ぎないことが前提されてきたからだ。



そこで今回のエントリでは、行動経済学によってトレンド・ワードとなっているこの「不合理性」に、もう少し広い文脈から着目したい。


行動経済学が明るみにした〈不合理性〉は主に選択意思決定の場面にその力点を置かれるが、資本主義がより根源的な〈不合理性〉を背景に成り立っていることは、社会学を含む人文系の知の系譜の中で長らく指摘されてきた。


特に、資本主義の「発生」と「発展」の2つのフェイズにおいて、乗り越えられるべき大きな〈不合理〉は存在する。今回のエントリではまずその前者、「発生」のフェイズに大きく関わってくる「貨幣の不合理性」について紹介してみたい。



■1万円と宇宙人


唐突だが、ここで想像してほしい。今あなたの前に、金髪ブロンドで日本語ペラペラの外国人男性があらわれたとしよう。


さらに唐突だが、この外国人男性、実は宇宙人である。


高度なクローン技術により見た目は人間そっくり。翻訳技術のおかげで一般的なコミュニケーションにも問題はない。だがしかし、地球には到着したばかりで、人間の基本的な文化をあまり理解していないようだ。


なにより彼が来た星には、「貨幣」、つまりお金という概念が存在しない。すべては物々交換によって社会生活が営まれており、貨幣など見たことも聞いたこともない。


そして、いまここで、財布の中から1万円を取り出して、この宇宙人に渡してみよう。

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さて、当惑する金髪の宇宙人に、この1万円が「何か」を説明することはできるだろうか。


「これを物と交換ができるんだよ」とでも説明すれば、当座はしのげるかもしれない。ただ、「なぜこんな紙切れがモノと交換できるのか」と彼に問い直された時、私たちはどう答えればいいのだろうか。毎日のようにふれ親しみ(本当はもっと親しみたいところだ)、資本主義のはじめの一歩ともいえる「貨幣」について、私たちは何を知っているのだろうか。


この仮ごしらえの想像のステージ上で、貨幣とは何だろうかを考えてみたい。その実験は、貨幣成立の背後にある〈不合理性〉を浮かび上がらせる照明を舞台上に落としてくれるはずである。



◆貨幣とは何で「ない」か(1) 貨幣メディア説


まずは、18世紀後半ごろ活躍したデヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、デヴィッド・リカードといった「古典派」と呼ばれる経済学者にとって、貨幣がどのようなものだったかを確認しよう。


彼らにとって貨幣とは、商品が市場に流通するための「潤滑油」「媒介」であった。この説の下では、貨幣はそれ自体で価値を持つわけではなく、あくまで商品と商品を媒介するものとしてだけ存在する。こうした立場を、ここでは【貨幣メディア説と呼んでおこう。


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しかし、これは「貨幣の謎」を解くものと言うよりもむしろ、貨幣が果たす「機能」だけに着目し、その本態については問わない立場といえる。重商主義的な拝金主義を正す(啓蒙する)狙いのあった古典派経済学にとっては、貨幣への分析はこれで十分であったかも知れないが、宇宙人を説得する私たちの課題にはそぐわない。


「この紙切れとモノが交換ができるよ」という宇宙人への説明はこの媒介機能を教えるものだが、それは、物物交換の片方の「モノ」を「紙幣」に置き換えただけであって、「貨幣が貨幣であるのはなぜか」という疑問の説得としては片手落ちである。1万円とモノを交換して戻ってきた宇宙人は、次に1万円札をみる度に、同じ疑問を繰り返すことになるだろう。



◆貨幣とは何で「ない」か(2) 商品説と法制説


貨幣の「起源」によりせまる議論の系譜としては、歴史上、次の2つの説が優勢な立場を保ってきた。


一つは、貨幣そのものに商品的な価値があって、それが貨幣として流通するという立場。スコラ哲学からの歴史があるこちらの説を、【貨幣商品説】と呼ぼう。


もう一つは、共同体による決まり事や契約、国家による規則や法律などで貨幣として定められたからこそ、貨幣が貨幣として流通するという立場。貨幣の外部に、貨幣を貨幣として定義する権力の契機を想定するこちらの立場を、【貨幣法制説】と呼ぼう。


 貨幣商品説・メディア説.png


しかし、この上の2つは、宇宙人への説明としてはどうにもあまりうまくいかないことがわかっている。


まず、貨幣そのものに商品(モノ)としての価値があるとすると、その貨幣の「モノとしての価値」が「貨幣としての価値」を上回ってしまった瞬間、人はそれを貨幣として使わずモノとして使ってしまう。1万円を折り紙として使う効能が1万円の価値よりも上回ってしまえば、1万円は貨幣としての陽の目をみることはない。モノとしての貨幣は、それが貨幣として流通する駆動力を提供してくれない(貨幣商品説への反駁)


また、法制説には、歴史が誤りを指摘する。国家が法律によって定めたにもかかわらず市場で流通しなかった貨幣も、国家が定めていないのに流通してしまう貨幣も、歴史上にたくさん存在してきたからだ(法制説への反駁)


それぞれの説は、貨幣の起源の現実として歴史上には当てはまる事例はあるかもしれないが、原理的な説明としては決定的なものを欠いている。粘り強い宇宙人にすこし勉強されてしまうと、タジタジになってしまいそうだ。



◆貨幣の「奇跡」


では、貨幣を貨幣たらしめているものは、一体何なのだろうか。なぜ、市場の売り手は、それ自体モノとして使えない紙切れをそれ自身で使い道のあるモノと交換する気になるのだろうか。実はここに、今回のエントリの最大の「不合理」がある


答えを先に言ってしまおう。
売り手がモノと貨幣を交換するのは、「将来のいつの日かに、だれかほかの人間がその一枚の紙切れを一万円の価値をもつ貨幣としてひきうけてくれるからである、いや、ひきうけてくれると期待しているから」(岩井1993,192)である。


つまり、売り手Aがモノを貨幣と交換する気になるのは、また次の機会に、「別の売り手B」が貨幣を別のモノと交換してくれるだろう、という予期をもっているからに過ぎないのだ。


そして、予期したとおり、未来に「売り手B」があらわれたとしよう。さて、その売り手BがモノとAが持っている貨幣を交換する理由は何か。それは、将来のいつの日かその貨幣を受け取ってくれる新たな「売り手C」が登場してくれることを売り手Bが予期しているからだ。そしてその売り手Cが貨幣とモノを交換するのは・・・。無限に展開されていく、予期に支えられた予期。貨幣が貨幣として成立する理由には、実は「それ以上のもの」はない。


こうして貨幣の交換は、循環的な構造を持つことになる。「貨幣が使えるだろうと思うこと」が次の「貨幣が使えること」を生み、そしてまた次の「貨幣が使えるだろうと思うこと」生み出していく…。貨幣はこのようにして、自己言及self-reference的に他者の予期と「使えた」という事実を参照しながら、市場をぐるぐると流通していく。


「1万円」と書かれたモノとしての紙幣と、価値あるなんらかの商品(モノ)のモノ的次元におけるあまりに不釣り合いな交換。この交換が成立するのが、「貨幣を使ってくれるだろう」という予期にしか支えられていない。ここに貨幣の不合理というよりもほとんど「奇跡」はある。




さて、上のようなことを、わたしたちの宇宙人に説明してみよう。


おそらく宇宙人は1万円を「使う」ことはできるだろう。役立たずの紙切れが何らかのモノになることは宇宙人にとってうれしいことであり、そこには彼にとっての利得しか生まれないからだ。


しかし宇宙人は、自発的に売り手の側にまわることはおそらくできない。上の説明は、その循環の事実を経験したことのない者、つまり循環に巻き込まれていない人間にとっては、あまりに説得力に欠けている=不合理性に満ちているからだ。


貨幣が貨幣であることの循環構造は、それがこれまで循環「してきた」という事実性にあまりに多くを負っている。貨幣の貨幣たる所以には、「AだからBである」という因果論が橋渡ししてくれない、あまりに広い間隙があいている。自分のモノを貨幣にかえようとする宇宙人は、なんの根拠も持たず、商品を握りしめたまま、まさに「命がけの跳躍(マルクス)」を強いられる。それは、地球に降り立ったばかりの彼にとっては、あまりに高すぎるハードルである。



■抜き打ちテストのパラドクス


貨幣の「跳躍」の不合理性をより際だたせるために、ここで、論理哲学の有名なパラドックスを紹介しよう。それは、「抜き打ちテストのパラドックス」と呼ばれている。やや長いのでウィキペディアから引用してしまおう。


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ある教師が、学生たちの前で次のように予告した。
「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日に抜き打ちテストを1回行う」。


これを聞いたある学生は、以下の推論の結果「抜き打ちテストは不可能である」という結論に達した。


●まず、金曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。すると、月曜日から木曜日まで抜き打ちテストがないことになるから、木曜日の夜の時点で、翌日(金曜日)が抜き打ちテストの日であると予測できてしまう。これでは抜き打ちとは言えないので、金曜日には抜き打ちテストを行うことができない。


●次に、木曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。すると、月曜日から水曜日まで抜き打ちテストがないことになるから、水曜日の夜の時点で木曜日か金曜日のどちらかの日に抜き打ちテストがあることが予測できる。


だが、上述のように、金曜日には抜き打ちテストがないことが既に分かっているので、翌日(木曜日)が抜き打ちテストの日であると予測できてしまう。よって、木曜日にも抜き打ちテストを行うことができないということが分かる。


●以下同様に推論していくと、水曜日、火曜日、月曜日にも抜き打ちテストを行うことができないということが分かる。したがって、「先生はいずれの日にも抜き打ちテストを行うことができない」という結論になる。


●しかし翌週、テストは水曜日に行われた。上記の推論にもかかわらず、学生は全くテストの日を予測できなかった。
すべては教師の予告通りになったのだ。
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■貨幣の停止する日


ここで、上の例にならい、また簡単な思考実験をしてみよう。


「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日に、貨幣が全く使えなくなることがわかっているが、それがいつかはわからない」状況を考えてみてほしい。


この実験でも上の抜き打ちテストと同型の推論が導きだされてくる。


●仮に、貨幣が貨幣として使えなくなる日が土曜日だとする。すると、金曜日の夜には貨幣はすでに使えないはずだ。なぜなら、貨幣が貨幣として使えるその所以は、「次に使う時も、誰かがそれを貨幣として扱ってくれるだろう」という未来への根拠なき予測にのみ依存していたからだ。


●金曜日に貨幣が使えないとすると、木曜日にも使えないはずだ。同様に、木曜日に使えないなら水曜日にも、なぜなら…。


もうおわかりだろう。つまり、貨幣は「どこかで」使えなくなることがわかった時点で、貨幣は「それ以上」使うことができないという不思議な推論が導かれるわけだ。


そして、その「貨幣が停止する日」は、決して上の実験のための詭弁ではない。
どんな文明も永遠の命をもたないがために、いつか必ず、私たちの貨幣が使えなくなる日はやってくる。「そのいつかはすぐ来ない」と思うだろうが、その「いつ来るかがわからないが、必ず来る」状況は、上の実験とまったく同じことである。



■貨幣の停止する日


貨幣の寿命。それは、最後の審判の日、貨幣が停止する日が「決してやってこないだろう」、そしてそのことを「次の受け手も信じるだろう」というあまりに不合理な予想をいつまで引き伸ばせるかにかかっている。その不合理を〈隠蔽〉し通すことが、すべての貨幣が背負っている宿命=ミッションである。


そして事実、そのミッションは、時に失敗する。
その失敗は、貨幣の価値が極限まで下がる、ハイパーインフレの事態として現実化する。受け取った貨幣が、次に貨幣として使えることへの信頼が揺らいだ時、つまり不合理さの〈隠蔽〉が失敗した時、貨幣はその価値をどこまでも下げていき、いつしか貨幣として流通するのをやめ、経済の営みは停止する。


行動経済学は、意思決定における人の予想を超えた不合理性をモデルに組み込むことによって驚きを与えた。一方、今回紹介した貨幣の不合理は、そうした予想の「程度」の問題にはない。根拠なき予期は、その不合理を〈隠蔽〉されていなくてはならない。その意味で、貨幣による交換の成立の場は、いつか来るはずの循環の終焉に対して、その身震いするような予想を「超えた」ところではなく、「越えた」ところにある。わたしたちが普段なにげなく使っている貨幣は、そのナイーブな「なにげなさ=不合理さへの盲目さ」によってこそ延命を可能にされている、実に危うい装置なのである。



さて、貨幣の謎がおぼろげながら解かれ、その背後の不合理性を顕になったところで、次回のエントリは、「発生」から次のフェイズ、「発展」のフェイズに移っていきたい。



【脚注】
※1 一般に流行した行動経済学的発想の事例として紹介されている中には、合理性の問題を歪曲しているものも散見されるので、注意が必要だ。実際に見かけた例としては、「7000円の野球のチケットに30000円払う」という行動は、古典経済学的な意味を前提にしたとしても「不合理」な行動とは言いがたい。それは単に商品の効能の基準が人によって異なるだけであり、行動経済学的な発想にない。


※2 貨幣についての現代的議論としては、岩井克人による『貨幣論』がよく知られている。氏の論考はセンター試験の現国問題に使われるほどなのでご存知の方も多いだろうが、以降、氏の議論を参照しながら、貨幣の謎に迫ってみたい。