企画部 アシスタント・ディレクター 小林祐児

広告という〈刺激Stimulus〉にたいして、消費者の足を、視線を、思考を一時停止させ、何らかの〈反応Response〉(購買…共有…選択…)を引き出すこと。


広告という社会的営為の絶対的な目標として君臨するこのS→Rモデルの「有史以前」を探索することで、現在まで続くこのモデルを改めて捉え返してみることが、ここでの広告の社会学の主な目的になる。


前回のエントリでは、江戸期の引札や明治の岸田吟香による精綺水広告などを例としてあげながら、広告が「広告」として自立していくさまを見てきた。そこでは、SからRへという図式に収斂されていく以前の、共時的かつ享楽的な「ネタ」としての広告の受容のされ方を通過しつつ、「広告であるもの/広告でないもの」の線引きが受け手と送り手の双方にとって自明なものとなっていく様子を垣間見ることができた。


しかし、前回までの広告史の振り返りにおいては、消費者についてのSRモデルそのものは、今日ほどの強度を獲得するに至っておらず、未だ「前史」の段階にとどまっている。


そこで今回のエントリでは、岸田吟香「精綺水」広告とほぼ同じ頃、「ポスター」というメディアにおいて起こった広告の地殻変動を見ていきながら、SRモデルの生成の過程を探って行きたい。そのためにはまず、ポスターを広告メディアとして一般に敷衍させるきっかけとなった「百貨店」の登場を見ていかなければならない。



■百貨店と「遊歩する消費者」


1852年フランス「ボン・マルシェ」から始まった大型小売店の新形態「百貨店」の誕生は、消費社会におけるエポックメイキングな出来事としてこれまで多くの研究者たちの耳目を集めてきた。まずは、19世紀前半、産業革命後のフランス都市部において、百貨店が誕生するための2つの素地が整えられていたことを確認しておこう。


【第1】に、値段はすべて交渉で決定し、入店と購買が分け難く結びついていたそれまでの商店から、「入店自由、定価表示、現金取引」という新商法を生み出した「新物店magasin de nouveautes」の登場。


【第2】に、ガラス屋根のアーケード街を歩きながら店内を覗きこむ、「ウィンドウショッピング」という間接消費のスタイルを誕生させた「パサージュpassage」の広がり。


このパリを中心としたフランス都市で花開いた新しい2つの店舗形態の土壌の上で、世界初の百貨店は産声をあげる。


広大な敷地面積やオペラ座を模した大階段を配置した百貨店の空間は、「より良き生活」への上昇志向と、商品そのものだけではなく、商品がまとった記号的イメージも同時に消費する、現代消費社会の原型を用意した。陳列された大量の「もの」とそれに付随する「イメージ」に囲まれた空間をふらふらと遊歩していく間接的な消費スタイルは、それまでの商店スタイルとは全く異なる質的な変化を生み出したのである。

ボンマルシェ.gif
1887年当時の仏ボン・マルシェ


■三越の美人画のポスターと「啓蒙」の論理


さて、こうした百貨店の文化は、日本ではどのような形で輸入されたのだろうか。


日本における百貨店は、開国と文明開化の余韻冷めやらぬ時代、「西洋」と「近代」が織り交ざる、より複雑な状況下において産み落とされた。ここでは、初期百貨店の代表的事例である三越百貨店を例にとって見ていこう。


日本の百貨店の始まりに大きく尽力した人物としては、水戸藩士の四男坊として生まれた高橋義雄が知られている。


慶應義塾を卒業した後、時事新報社→三井銀行に入社した高橋は、幕藩体制の崩壊後、経営難に陥っていた三井呉服店の理事に就任した。彼が三井呉服店に施した経営改革の一環として1904年に設立されたのが、株式会社・三越百貨店である。(ちなみに高橋は実業界引退後、茶人高橋箒庵としても各界で名を馳せた人物である)


フランスでの例をあげたとおり、「百貨店」という店舗形態は、単なる形式的な変化にとどまらず、新しい時代の消費スタイルを刷新するというある種大仰な役割を果たすものとして登場してきた。


欧米の百貨店を現地視察によって学んできた高橋と、広報戦略のブレーンであった日比翁助が目指したのも、そうした新しい消費時代の幕開けを牽引することであった。


とくに、日本の百貨店としての三越が自負していたのは、呉服店時代から引き継いだ和の文化と、西洋的な新しい文化を統合し、新時代にふさわしい新しいテイスト――三越らしい「趣味」――を生み出していくか。それが新しい百貨店として抜本的な経営改革を行う三越のミッションであった。


そして、「三越という言説」を作り出すことを目標にしたその広報活動を行う日比の活発な働きの背景にあったのは、日比が欧米から学んだ、「百貨店は社会=国家に貢献奉仕すべきものである」という構えと、押し寄せる西洋文化の波に混乱する大衆を「三越的な良き趣味」によって訓化する必要があるという「啓蒙への意思」であった。



そして三越そのミッションの中で重要な位置づけを与えたのが「ポスター」という広告メディアである。
杉浦非水によって主導されることになる三越図案部は、美学の分野でもよく知られた橋口五葉「此美人」のポスターに代表される、絢爛豪華な美人画ポスターを製作していった。


   

 岡田三郎助「むらさきしらべ」ポスター       橋口五葉「此美人」ポスター 

しかし、当時の美人画ポスターと現在の広告のあり方を比べてみると、そこには明確な違いがある。


岡田三郎助による「むらさきしらべ」にしても、橋口五葉「此美人」にしても、下地の美人画をベースに、「三越呉服店」という店名が隅のほうにレイアウトされているのみ。美人画として描かれた下絵は店名も商品とも全く関係のない内容であり、店名が付されることの必然性が感じられるものではない。


この最初期のポスター広告で表現されているのは、あくまで和洋折衷の新しい〈美〉のテイストとしての美人画という「芸術」であり、「三越」という「良き趣味」を広布する主体である。三越のポスターは、西洋的なものの流入に文化的混乱をおこす「大衆」に対して、美学的な洗練さと、三越的な趣味(の良さ)を訓化し、かれらを先導・啓蒙していく、国家学的な欲望を内に秘めていた。


そこで目指されていたのは、単なる認知度の向上でも来店客の上昇という即物的「効果」でもない。日比翁助が目指していたような、「国家に貢献する百貨店」という思想的な背景が具現化したのが、これらの美人画ポスターだったのである。




■広告「学」の始まり


ここで一旦、三越から離れよう。
同時期に、広告の世界でもう一つ起こっていた地殻変動の一つに、「広告についての語りの激増」という変化があった。


1910年代にはいると、広告についての研究書の出版数が急増しはじめ、大学には、有志による「広告研究会」が続々と設立されていく。また、初めての広告代理店による広告についての研究誌として1923年には萬年社による『廣告論叢』が定期出版を始めている。このころの日本全体において広告を広告として独立に語る、「広告学」が発達してきたわけだ。


広告を取り巻く言説が全体量を増加させながらその自意識を変えていく中、1921年には、朝日新聞社、讀賣新聞社などが共催した、世界大戦についてのポスター展覧会が行われる。このポスター展覧会の場で、三越的なポスターは、新しく立ち上がってきた「広告学」から容赦無い批判を浴びることになる。


展覧会のポスター図案の序文、そしてそこに論文を寄せている内田魯庵の言葉を引いておこう。



(序)「宣伝に耳の宣伝あり目の宣伝あり、各一長一短を免れずといえども、最も直截簡明に当面の問題を象徴して、一瞥の下観者の趣味性に喰い込み肉踊り骨動くの感を抱かしむるものはポースターの宣伝の若くにはなし。」(北田2000,102)
  
「概して此の頃の女の雑誌の表紙の引伸ばしのような浮世絵式の美人画であって、画家の頭のないのを証明し過ぎている。数年前、三越の懸賞に当選した橋口五葉の今様美人平岡権八郎の今様美人のポスターも亦此等の類に属しているので、無用の煩瑣な粧飾に余計な手数を掛けたほかは何らの創意の無いものであった。」(北田2000,104)



序文で述べられているのは、一瞬みただけで見た人に強い印象を残すのが宣伝の本態であり、ポスターこそがその代表的な手法であること。そのことを前提とし内田が痛烈な口調で語るのは、三越のような美人画のポスターは創造性の無い愚作でしかないという、三越のような「啓蒙」のポスターへの批判である。


なかなか手厳しい論難であるが、ここに現れているのは、「広告」を「広告」として自立的に語りはじめた「商業美術」の論理が、三越ポスターに代表される「美学の論理」を駆逐していく様子だ。そして、そこには、広告というメディアそのものに対する大きな変化も現れている。次に確認していこう。




■SRモデルの〈前提〉


見る者の足と目を止めて印象を残すことこそが広告の本義であり、美人画のような旧来的な「美術」の文脈に依存している広告ではなく、広告は広告独自の創造性を発揮しなければならない。


上の例でみたように、商業広告の自覚的意識が発達していった過程は、そのまま、三越のような広告が背負っていた「余計なもの」を降ろしていったプロセスでもあった。


三越広告が担っていた啓蒙の論理も、美学的な趣味の涵養も、背景にある国家への貢献も、すでにここでは目もくれられず、広告として優れている/優れていないを決するのは、「一瞥の下観者の趣味性に喰い込み肉踊り骨動くの感を抱かしむるもの」、つまり見たものにどれだけ強い心の動き(反応Response!)を起こしうるか、という一点に照準される。


この広告学の言説において、日本の広告史上はじめて「反応するかしないか」「目を留めるか止めないか」が広告効果の絶対的な二分コードとして定立されていく。


そして、そこで広告を受け取る受け手とはすでに、訓化されるべき「大衆」では無い。


そこに前提されているのは、「良き趣味」の啓蒙によって文化的混乱から救うべき市民たちではなく、関心の無いものには素通りしてしまう、「潜在的な消費者」の姿だ。そこではすでに、Stimulusに「反応する」、つまり裏を返せば、反応しないときは単に素通りしていくだけの「消費者」の姿が、広告メディアの照準する受け手の姿として実定性を持ってあらわれた。


ここでようやくわたしたちは現在の、広告という〈刺激Stimulus〉にたいして、消費者の〈反応Response〉を引き出すSRモデルの原初的な姿と、それが背景にしている「暗黙の前提」を照らせる場所までたどり着く。


SRモデルの前提となる受け手とは、


1.広告をネタとして享楽的に受け取る「町人」でもなく(引札・読本)、上から啓蒙されるべき塊としての「大衆」でもない(美人画ポスター)、「潜在的な消費者」という不透明な実体であり、


2.それらの消費者は、読本を広告と一緒くたに読み上げる音読者でも、「良き趣味」を腕組みして眺める鑑賞者でもなく、興味を惹かない広告をまるでそこに無いもののように「素通りする」、注意散漫な主体であることが必要なのである。



こうした新しい受け手像を仮定しながらSRモデルの論理を強化し始めた広告世界は、その表現内容(クリエイティブ)においても、それまでの広告から自由になったように新しい手法を試み始める。


■赤玉ポートワインの「軽さ」


1つの有名な例が、1920年に片岡敏郎が手がけた「赤玉ポートワイン」の新聞広告である。


赤玉ポートワイン.jpg

通常の新聞広告の枠上に、記事に覆いかぶさるような荒々しい筆致で書かれた商品名。


広告であること/広告で無いことを、内側から食い破ってしまったようなこの歴史的な広告表現のロジックは、すでに、三越のポスターのような「啓蒙」の論理を背負ってはいない。広告が市民の日常空間を侵食すればするほど、数ある広告に囲まれながらその大半に文字通り「目もくれない」、気散じする消費者の目を止めること、そのこと「のみ」に賭けられている。


このような捩れたクリエイティブを可能にする、荷物(余計なもの)を置き始めた広告の「軽さ」をここで確認できるだろうか。




■60年代のクリエイティブ革命と〈純粋広告〉の誕生


1920年の赤玉ポートワイン広告のような創作例は、あまりに先駆的であったため、新聞広告の舞台にこのような広告が跋扈する事態には至らなかった。だが、このSRモデルを背景に「目を留めること」のみに賭けられた広告の「軽さ」は、その後続々と新しい表現手法を発達させていくことになる。


そこでは、すでに広告は〈広告であること〉を装わなくても構わない。むしろ、広告「らしからぬ」ことによって、より広告「らしくなる」という広告の自己言及的に捩れた技法は、その後の広告の差別化戦略として頻繁に用いられるようになる。


以後の広告のクリエイティブ刷新の代表的な例として、ニューヨークの広告代理店Doyle Dane Bernbachがフォルクスワーゲン社と組んで行った1960年代の広告を見てみよう。


lemon.jpg

広告専門雑誌で最優秀広告賞をとった広告をそのまま再度掲載し、「どれがお気に入りですか?」(左)
車の下に「レモン」のキャプションと、「あなたが車を創るとして、こんな広告を出しますか?」(右)


このDDBの極めて先鋭的な表現を見てわかるように、広告は、広告の中で、広告のことを自由に指し示し始めている。80年代の日本芸能界においてとんねるずが始めた「内輪ネタ」に通じる、一種の「円環の閉じ」と同じ事態をここに感じるのは筆者だけだろうか。「広告らしさ」を何重にも入れ子にしたこのクリエイティブへのResponseは、当時相当に大きかったことが伝えられている。


社会的意義や、美学への目配せ、啓蒙の論理、国家への貢献… そうした「余計なもの」を取り除いた先に、SRモデルにひたすら忠実にメディアに登場し続ける広告は、時に広告への自己言及をも含みながら、Responseへの飽くなき欲望と他の広告からの差別化を追い求めていく。そうした新しい広告の姿を、ここでは仮に、消費社会の進展が生んだ〈純粋広告〉とでも呼んでおきたい。




■〈純粋広告〉はどこへいくのか


広告を眺める視点がつねに拘束されているSRモデル。そのSRモデルの前史を振り返ることで見えてきたのは、モデルが暗黙の前提にしている受け手の姿と、その受け手からのResponseのみを求めつづける〈純粋広告〉という現代まで続く広告のあり方であった。


商品とメディアとクリエイティブを組み合わせ、最終的に「効果」の最終評決を待つ運命の〈純粋広告〉の世界。その意味で、ステマ広告も、炎上マーケティングも、SNSのシェア型広告も、90年前の赤玉ポートワインの広告と同じ地平の上での異なった戦術に見えてくる。


その「戦争」での勝者は、知覚から常にあふれでんとする情報の渦(すでに陳腐な直喩であるが)をゆらゆらと遊歩する潜在的な消費者にたいして、その視線を一瞬でも「Response停止させること」ができた者であり、それ以上でもそれ以下でもない。大量にあふれる〈純粋広告〉は、訓化の欲望も啓蒙の義務感も抱えることなく、その全てがそのことを目指してわたしたちの生活空間を浸している。


現在も世界中の広告が様々な創意工夫をこらしながら、どこかにいるはずの受け手へと賭けられる広告空間、その賭場に置かれたテーブルの足元をすこしでも照らすことができたならば、今回の社会学のすゝめは役割を果たせたものとしたい。



【参照文献】


北田暁大「広告の誕生」岩波書店
高桑末秀「広告の世界史」日本経済新聞社
神野由紀「趣味の誕生――百貨店がつくったテイスト」勁草書房
難波功士「広告のクロノロジー――マスメディアの世紀を超えて」世界思想社