株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

これでは、読んでも読んでも追いつかない。

書店で情報技術、IT系の本棚の前に来た時の筆者の嘆息である。
インターネットの普及による情報環境の激変。めまぐるしく変わるインターネットの世界においては、技術や流行の変遷にともない、その潮流についての時事的な書籍(少し前ではmixi本、最近ではtwitter、Facebook本が山となっている)が書店で平積みされていく。


しかし、それらのほとんどが、情報としての賞味期限があまりにも短いものばかりだ。「書籍」というメディア、そして「書店」という場がもつ時間の流れ、それを大きく上回る速度で流れていくインターネットの世界において、「どの本を読めばよいのか」はきわめて判断が難しく、選んでいるだけで文字通り日が暮れてしまったこともある。


急き立てられるように時事技術本を読みあさる労苦をオミットし、「今後も参照できる息の長い本」を摂取したほうがコストパフォーマンスがいいのではないか。一時期書店にあふれていた「セカンドライフ本」、そしてそれを読むためにかけた労力はいまどこにいったのか…。


そうした(内なる)声にお応えする形で、今回のエントリは、僭越にも「ネット社会のブックガイド」と称し、インターネットについて人文的な知が蓄積してきた業績をまとめて紹介しよう。


しかし、いくら時事的なものを除いたとしても、こうした趣旨のブックリストはいくらあっても足りないのが常である。そこで、テーマをネット社会に生きる「わたし」について考える上で参考になる文献に限定した上で、3つほどのテーマにわけ、紹介していこう。


ちなみに、エントリタイトルは森健氏による『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』から拝借している。2005年に上梓され、ジャーナリズム的な視点から当時のネットを取り巻く知的状況を手際よく・包括的にまとめた同著に敬意を払い、著作リストのトップに掲げつつ、紹介の段に移っていこう。



■初期インターネットと「民主主義の精神」


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●ニコラス・ネグロポンテ 『ビーイング・デジタル』


1995年、MITメディアラボ所長のニコラス・ネグロポンテによる著作。アナログのメディアから「ビット」が支配するデジタル生活の移行によって、人々の暮らしがどういう変化を見せるのか、豊かな想像力によって情景的に浮かび上がらせた。


著作としての一貫した主張はなく、研究メモのような印象すら受ける一作だが、当時の最先端のメディアラボにおいて「バーチャル」「デジタル」といったものがどういった受け止められ方をしていたかがうかがえる。「音声、ビデオ画像、データが組み合わさったものをマルチメディアと呼ぶ(太字原文ママ)」(P31)などの言葉はさすがに今読むと古めかしいが・・・。


本書は、インターネット時代の人々の情報摂取の仕方を「デイリー・ミー」と表現したことで知られている。
本書215Pにおいて彼は、デジタル時代の新聞について、自分の興味関心のあるところだけを集約してくれる特別に編集された電子新聞、いわば「日刊・わたし」の想像をふくらませている。


そして現在、RSSリーダーによるブログの閲覧から、SNSによる情報摂取、ニュース購読アプリまで、まさにインターネットでの情報摂取のあり方は、この「デイリー・ミー」のイメージ通りに進んでいる。同時にテレビ・雑誌・新聞・ラジオといったマス媒体の求心力が衰えるなか、ネグロポンテのこの標語はいまだに言及され続けている。




●キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』


デイリー・ミーのような「事前に選択済」の情報摂取が中心になってくると、人々は徐々に多くある情報の中から、自分に関心のある情報しかふれないことになる。そして、この「関心」とは、未来でも過去でもなく、「現在」のわたしがもっている関心だ。そこではつまり、「現状では関心は無いが、未来では関心をもつ可能性のある情報」にふれる機会が少なくなる。デイリー・ミーは、現状維持的な情報摂取の傾向を強化してしまう側面ももっている。


それは果たして、社会全体にとって「良いこと」なのだろうか。インターネットによって近代社会のあるべき姿はどうなるのか。そのことを端的にタイトルにし大きな話題を呼んだのが、アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンによって著された「インターネットは民主主義の敵か」である。


サンスティーンは、ネットを中心にした人々の情報摂取方法の変化によって、


 1.思想や考え方の異なる人々との相互交流がうまくいかなくなる
 2.広まるべき情報が広まらなくなる
 3.情報選択の幅が狭まり、市民としての自由が損なわれる


ことを危惧した。また、ネット上のコミュニケーションにおいて、大規模かつ短期間に極端な方向に意見が流れていく「サイバーカスケード」と彼が呼んだ現象について、民主主義的なコミュニケーションの弊害になるものとして、注意を喚起している。サイバーカスケードとはつまり現在でも頻繁に話題になる「炎上」のことだが、2001年に書かれた同著で先駆的に語られたトピックであった。


今振り返れば、初期のインターネットを見つめる人文系の議論には、「より深い熟議」や「より直接的な民主主義」が、インターネットによって開かれるのではないか、という希望が託されたものが多かったように思う。新しいコミュニケーション回路によってより良い社会、より良き政治が可能になるのではないか。新しいカタチの社会という夢をネット世界に仮託しつつ、その可能性を検討するなかで、サイバーカスケードやデイリー・ミーのような、否定的な側面が発見されていった経緯がある。


こうした流れに属するものとして、


 吉田純一による「インターネット空間の社会学―情報ネットワーク社会と公共圏」
 花田達郎 「公共圏という名の社会空間―公共圏、メディア、市民社会」


なども日本人による代表的な業績としてあげておきたい。



■「アーキテクチャー」と「ライフログ」


       

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●ローレンス・レッシグ『コード──インターネットの合法・違法・プライバシー』


インターネットに代表されるネットワーク社会と権力の関係を論じ、上梓以来熱狂的に読まれたのが99年に法学者ローレンス・レッシグによって著された『コード──インターネットの合法・違法・プライバシー』である。
レッシグは、人々の行為を制約するものとして、「市場」 「法」 「規範」 「アーキテクチャ」を指摘する。この最後の「アーキテクチャ」を名指したのがレッシグの白眉である。architectureというのは「建築」「構造」を意味する単語だが、この本が著されてからは、インターネットに代表されるネットワークにおいて、コード(プログラム)によって与えられる環境そのもののことを「アーキテクチャ」と呼ぶことも一般化した。


具体的な例を示そう。
いま、人々の公道での速度違反を防ぎたい、と考えたとする。によって違反速度は定められているし、人々の間には「速度をだしすぎてはいけない」という規範もある。また、罰金は、市場の原理からしてみれば単純にコストとして計上される。


これらの制約に対してアーキテクチャによる制約にあたるのは、速度違反を減らすために「道路に施される加工」である。
日本の高速道路でもときおりわざと凹凸の加工をされている道が存在するが、この加工によって、その上を走る車は一定速度以上を出して走行することが物理的に不可能になる。このように、環境そのものをコントロールすることによって人々の行為を制限するのが「アーキテクチャ」による制約の性格である。


法律や規範による行為の制約と、「アーキテクチャ」による行為の制約の違いの本質。それは、人々の行動にそもそも「他の選択肢」を与えないことである。規範による説得や、法による抑止ではなく、システムや環境によって、行為の選択肢そのものを狭めてしまうこと=他の選択肢を存在しないものとしてしまうこと。それがコードに依存するネットワーク社会ではより徹底した形で現実化され、権力と人々との新しい関係が生まれている、というのがレッシグ論の骨子である。


レッシグの論を現在におきかえて考えてみると、特定国家において実施されているといわれる、Googleの検閲問題だろうか。一見、自由を謳歌しているように見えるインターネットでも、Googleによって検閲がしかれた途端、特定の文字が含まれるサイトはまったく閲覧不可能になってしまう。そこには法も規範も関係無い、ただ環境によって縛られた「見れない」という事実性だけが、行為を制約することになる。レッシグが投げかけた問題提起は、ネットワーク社会が進んだ今こそアクチュアルに捉えなおすことができる。



●鈴木謙介『ウェブ社会の思想』


「何を買った」「何を食べた」「どこに行った」「誰に会った」「物や風景の写真」。ブログ、Amazon、twitterやFacebook、foursquareや食べログ、Instagram…。種々様々なウェブサービスで、わたしたちは、毎日のように自分が生きたデータを記録し続けている。


ライフログを残し続け、様々なネットワークに断片的に偏在していく「わたし」は、一体どうなるのか。そのテーマを、「自己物語」と「宿命」といったキーワードで説いたのが2007年の鈴木謙介著『ウェブ社会の思想』である。


これまで、「自己についての記憶」と「自己を語ること」によって形成されてきた「わたし」が、ウェブ上に残される「自己についての記録(データ)」による厳然たる事実に遭遇し、「宿命論的に」自己のあり方を受け入れてしまうこと。自己診断データやamazonに残った買い物履歴を眺め、「自分とはこういう人だ」と決めつけてしまうこと。
鈴木が語るそうした私のあり方は、以前には確かに無かったものだ。スマートフォンと位置情報を取得するアプリの普及で、今後ますますこの流れは進んでいくことを考えると、本著は発刊後6年ほどたった今こそ読まれる時期にあるのかもしれない。


※データとして包囲する記録され外部化したわたしのライフログを「アーキテクチャ」として捉えなおせば、本著は、「わたし」という問題系にひきつけたレッシグの議論の変奏とも言えるかもしれない。



■コミュニティと「つながりの社会性」


●北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』
 

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ご存知の通り、巨大匿名掲示板2ちゃんねるは、日本のインターネットにおいて特異な位置を占めつづけてきた。
その2ちゃんねるを中心に、直情的な愛国的言葉を書き連ね、スキャンダラスに耳目を集めたのが「ネット右翼」の存在であった。彼らの極端で過激な書き込みゆえに、時事的な興味は集中することになったが、そのコミュニケーション内容を、戦後日本の人々のコミュニケーション様態の変容と連続的に分析した北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』は稀有な著である。


この著作は、タイトルこそ「ナショナリズム」についての本のようだが、内実は、消費社会日本における60年代から現在に至るまでのコミュニケーションの様態史である。アイロニカルに世相を皮肉ってみる態度と、直情的にナショナリズムを煽ってみる態度が、なぜ同時に成立してしまうのか。連合赤軍から糸井重里、『なんとなく、クリスタル』から2ちゃんねるまでを「アイロニー」という一本の筋で論じ通す筆致は、きわめてエキサイティングである。


また、北田は「つながりの社会性」というキーワードを提出したことでも知られる。「つながりの社会性」とは、携帯電話でのたわいもないメールのやり取りや、2ちゃんねるでの意味もなく形式的に続いていくコミュニケーションなど、意味伝達や自己表現を目的としたコミュニケーションではなく、形式的にコミュニケーション行為を「つなげる」ことを重視する志向性である。


この「つながりの社会性」は、その後のインターネットでのコミュニケーションを語る議論で必ずと言っていいほど参照され、社会学のキーワードとして珍しくwikipediaに長大な解説がついていることでも知られるので、読んでみると理解が深まるかと思われる。



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■補足として


わずか5作を紹介しただけで、紹介すべきリストよりも先に紙幅の方がつきてしまった。
駆け足にはなるが、もう2冊だけあげることで、溜飲を下げることにしよう。


ised『情報社会の倫理と設計 倫理篇/設計篇』は、2004~6年の2年間、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)で行われた討議の記録が、2010年になって2冊の書籍にまとめられたものである(以前からウェブ上では公開されていた)。


上で名前を上げた北田暁大、鈴木謙介も含め、『一般意志2.0』『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』といった近年のアクチュアルなネット社会論をものした東浩紀、濱野智史や、実証なメディア研究を行う社会学者辻大介など、錚々たるメンバーによる多岐にわたる議論がまるごと収録されている。


本エントリであげた著作の内容にもすべて触れられており、まさに情報・ネット社会論の総合デパートといった感じであるが、内容のレベルの高さと色褪せなさは折り紙つきである。2作合わせると約1000ページに及ぶ大著ではあるが、同量の技術本を読む何倍もの強度の知的興奮を味あわせてくれる。



インターネットについては、人的ネットワーク論・コミュニティ論を中心に、実証的な研究も進んでいる。上の著作は、どの著作も視線の鋭さとオリジナリティでは疑いないものの、実証面ではやや弱さを見せる一般向け著作であるので、堅いデータや専門的な論文に目を通してみるのもいいかもしれない。より地に足の着いた実証的な論文集として、池田謙一・編著『インターネット・コミュニティと日常世界』をあげておこう。


ネットワーク論も、情報文明論も省略した、片手落ちどころの騒ぎではないブックリストとなってしまったが、これらの本に目を通せば、様々に報じられるネット社会のニュースに右往左往し、本棚の前で頭を抱えることは少なくなるのではないだろうか。


技術は日進月歩で進歩していくインターネットの世界だが、プレイヤーが異なるだけで、現象の本態はそれほど大きく変わってはいないことが多い。同様に、現在のインターネットを語る議論の骨子も、上にあげた議論とほとんど変わっていないことが多々ある。


表層的に移り変わる事象から、より変わりにくい「構造」を見いだすこと。コストパフォーマンスの面からも、そうした「変わりにくさ」への示唆を与えてくれるブックリストを持って、今回の社会学のすゝめとしたい。