株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ

マーケティングリサーチでよく使われる定型的な質問の一つに、「購買理由」を尋ねるものがある。
例えば、下のような形式をとるのが一般的だろう。


Q.1 あなたは、この商品を買ったことがありますか 


Q.2  【買ったことがある方へお聞きします】
    あなたがこの商品を買われた理由はなんですか。
    次の中からいくつでもお選びください。/もしくは/ ご自由にお書きください。


今日のテーマは、このような購買理由を問う設問に「意味があるのか」どうかである。


昨今のマーケティング業界では、行動経済学の流行もあり、人の購買行動の「非合理性」がそこかしこで喧伝されている。そうした議論の中では、人の行動はこれまで考えられていたよりももっと非合理的だし、フラフラと一貫性の無いものである(ゆえに購買理由を直接対象者に聞いても大して意味は無いんじゃないの)、という議論がなされるのが定石である。だが「社会学のすゝめ」では、そうした議論とも違う社会学的な角度から、消費者の「購買理由」について考えてみたい。



■動機の文法


まずは、購買理由の「理由」の部分にフォーカスしてみよう。


ある行為に対して、その理由、つまり行為の動機を明らかにしていく場面というのは、日常的によくある光景だ。
リサーチで問われる「もの・サービスを使う理由」以外にも、裁判所では「被告が罪を犯した理由」、学校では「生徒が授業をサボった理由」、恋人同士なら「彼氏が浮気した理由」というように、社会的場面によってさまざまな「理由」が問われる。


この「動機」について、文化論的な見地から説いたものとして、アメリカの評論家であるケネス・バークによる『動機の文法』が知られている。バークは動機を、【行為】、【場面】、【作用者】、【媒体】、【意図】というキーワードを用いて大分することを試みた。また、社会学者マックス・ウェーバーが、行為をそれに主体が付与した意味によって「価値合理的」「目的合理的」「感情的」「伝統的」という4つに区分したのも、一種の動機論として有名な例である。


このバークやウェーバーによる議論に刺激を受ける形で、動機についての独特な社会学的な分析を行ったのがアメリカの社会学者チャールズ・ライト・ミルズである。今回はこのミルズの議論のフックとして用いていきたいと思う。



■一般的な動機の考え方――動機の内在モデル


1940年に発表された論文「状況化された行為と動機の語彙」でミルズが言ったことを、簡単に要約してしまおう。


従来、動機や意図は、行為に「先立って」あるものと漫然と考えられてきた。いまでも一般的にはそのとおりだろう。何か行為がなされるさいには、人はその行為の理由となるものを行為に先立って心の中に持っており、その動機に文字通り「動かされる」ように行動を起こす。この一般的なモデルをここでは仮に【動機の内在モデル】と呼んでみよう。


 動機行為1.jpg

前回までの因果の話と関連させて、行為を【原因】と結果】に分解してみると、「動機」は、行為の【原因】の部分にしっかと据え置くのが【動機の内在モデル】である。これは、おそらく、多くの人の日常的な直感にもあてはまるだろう。



■ミルズの転換――動機の外在モデル


ミルズが論じたのは、これとは異なる、いわば【動機の外在モデル】とでも呼べるような考え方である。


ミルズはまず、動機には「語彙vocabularies」があると言う。
人は、自分でも他者でも、人の行為を解釈・理解・説明するときに、それらの行為を、すでにその社会に存在している〈動機の語彙〉を用いて、解釈・理解・説明するというのだ。


例えば、学生の授業サボリならば、「授業への嫌悪」「不良へのあこがれ」「友だちとの喧嘩」、恋人同士の行為なら「相手への嫉妬」や「無償の愛」などが行為を理解したり説明したりするための典型的な〈動機の語彙〉になるだろう。人は、学生の授業サボリという行為を、こうした語彙を用いて「動機」とみなしている。そして、その動機の語彙は、時代、社会、文化によって大きく異なるし、コミュニケーションの文脈によっても様々に変化していく。


ミルズ流の【動機の外在モデル】にとって、動機は、人間の内的属性(授業サボったとき、学生が心の中に何を考えていたか)ではなく、その内的属性を理解・解釈・説明するために呼び出される「行為者の外部にあるもの」として把握される。


そこでは、【内在モデル】が含意しているような、「心の底から行為を呼び起こすエンジン」としての動機の地位は剥奪され、動機は、ある行為について他者や自分が納得的に考えたりコミュニケーションするための「入れ物のようなもの」といった見方へと近づいていく。
 

動機行為2.jpg

【動機の外在モデル】は、動機を人々の内面に維持されている心的状態から、行為の事後的な理解やコミュニケーションにおける「正当性」の水準においたわけだ。


ここで、更にかみ砕いて説明するために、カミュの小説『異邦人』を思い出してみよう。冒頭に「今日、ママンが死んだ」と唐突につぶやく主人公の男は、ストーリーの半ばで友人関係のトラブルに巻き込まれ、とあるアラブ人の男を射殺することになる。


仮に、この事件を現代のわれわれが彼の犯罪の動機を調査したとしよう。なぜ男は、会ったばかりのアラブ人を殺すに至ったのか。


「実は以前からの顔見知りで、怨恨による犯罪だった可能性がある」
「友人を守ろうとした友情が生んだ悲劇かもしれない」
「服用したドラッグで錯乱状態だっただけだ」


男の殺人をめぐって、さまざまな「動機」が推測されるだろう。このとき、われわれは、男の殺人行為の動機を、われわれが「納得できる」ような、正当性のある既存の〈動機の語彙〉に当てはめようとしているのである。



■「購買理由」に意味はあるのか


さて、ミルズの【動機の外在モデル】を踏まえた上で、今回の本題に戻ろう。このようなモデルを採択するとき、リサーチにおいて購買理由を聞くことに意味はあるのだろうか。素朴にイエスと答えることはできそうにもない。ただ、それは即座にノーということを意味しない。少し考えてみよう。


まず、次のことはなんとなく言えそうだ。
心の内面から行為を司り、行為の確固たる原因となるような、「真なる動機」への素朴な信仰は捨てたほうがよい。人が持っている非合理的な側面から言っても、【動機の外在モデル】の立場から言っても、これは厳しい。


では、どのように考えていけばいいだろうか。マーケティングリサーチの定量的手法、定性的手法にわけて考えてみよう。



■「購買理由」への考え方――【定量的手法】


定量的な「購買理由」設問のほとんどが、事前に質問票に選択肢を用意する、いわゆるプリコード型の調査である。


まさしく、ここで言われる「選択肢」がまさに「動機の語彙」そのものであることは、ここまで読んでいただいた方には理解いただけるだろう。
「味が美味しいと思ったから」
「値段が安かったから」
「店頭で目がとまったから」
「パッケージが好きだから」…


いわゆる定型的な「動機の語彙」を、こちらから事前に用意してあげるのが、定量的調査手法の一般的なやり方である。こちらが納得できるような、正当性のある既存の「動機の語彙」を、プリコードの選択肢によって対象者にすでに呈示する。この操作によって、調査データはまず「理解可能」になり、「分析可能」になり、繰り返し調査の場合には「比較可能」になる。


ただ、ここで疑問は湧いてくる。【動機の語彙】をこちらから予め準備してしまっていいのだろうか。果たして、既存の語彙へ動機を当てはめていくようなそうしたやり方で、流行の「インサイト」は発見できるのだろうか。



■「購買理由」への考え方――【定性的手法】


定性的な調査手法、グループ・インタビューやデプス・インタビューなどは、こうした「動機の語彙」をプリコードしない方法が一般的だ。定量調査における自由回答もこの中に入れてもいいだろう。これならば「動機の語彙」をこちらから強制することが無く、「購買理由」を聞くにはこのほうが適しているようにみえる。


ただ、問題はそれほど簡単ではない。


調査は、対象者とリサーチャーとの、そしてリサーチャーとクライアントとの、きわめて特殊なコミュニケーションの一形式である。
対象者は、こちらが選択肢を呈示せずとも、眼の前にいるモデレーターやリサーチャーに理解できるような〈動機の語彙〉を使ってしゃべるし、回答する。調査というコミュニケーションがそもそも「相手(モデレーターやリサーチャー)に理解してもらうようにコミュニケーションする」という社会的圧力を含み持つことを考えると、それは回避できない事態である。グループ・インタビューの場の雰囲気や、リサーチャーの視線・反応ひとつでもその圧力は発動し、既存の「動機の語彙」へと「購買理由」を摺り寄せていく。



■〈動機の語彙〉の呪縛??


「購買理由」の、〈動機の語彙〉への収斂は、対象者とリサーチャーとの間だけで起こるのではない。リサーチャーとクライアントのコミュニケーションにおいても(むしろそのほうが?)その収斂は起こってくる。


自由回答について、クライアントと自由回答の回答結果を見ながらクライアントと話し合う場面を思い浮かべてほしい。


こちらが回答から見出し、提出した「購買理由」に、クライアントが納得できないのならば、その「購買理由」は、コミュニケーションとして再度修正を迫られるはずだ。この理解・納得・説明の入れ物のような〈動機の語彙〉は、こうしたクライアントとリサーチャーの間のコミュニケーションにこそ、大きく影を落としてくる。いくらリサーチャー側が「お、面白いな」と思うような「意外な」購買理由であっても、それがクライアントに理解できない内容であったら(クライアント側の「語彙」になかったならば)それはリサーチの報告としては失敗するしか無い。



■〈動機の語彙〉をやわらかくすること


結局、定性手法だろうが、定量手法だろうが、次の2つのことは留意しなければならないようだ。
1.〈動機の語彙〉が「コチラ側」(それはリサーチャー自身でもるし、リサーチの発注元でもある)にも存在するということ。
2.そして、われわれが社会に生きる限り、行為の理解可能性を担保する〈動機の語彙〉からは逃れることはできないこと。
まずはこの2つのことにしぶしぶでも、納得する必要があるように思う。


こうしてみてみると、〈動機の語彙〉は、消費者の「意外な」購買理由を見定めるための阻害となる、呪いの言葉のように見えるかもしれない。確かに、凝り固まった〈動機の語彙〉は、時代の変化に対応できず、優れた「意外性」をとりこぼしてしまう下手な入れ物になってしまう。


この〈動機の語彙〉がもつ硬着性に関して、リサーチャーとして何ができるだろうか。


語彙そのものを捨て去ることはできないことを踏まえて考えてみると、それは、自分の中にある〈動機の語彙〉を柔軟にすることかもしれない。正当性のある既存の「語彙」を、いちど洗いなおしてみる。「不良へのあこがれ」を、「友情」を、「美味しさ」を、「嫉妬」を、さらに分解してみる。自分が生きている社会以外が持っている、様々な種類の〈動機の語彙〉を知る。そうした、リサーチャーのやわらかな〈動機の語彙〉が、対象者、クライアントとのコミュニケーションに影響を与えていく可能性は十分にある。


〈動機の語彙〉は、普遍でもなければ、不変でもない。社会と時代と、そこ生きる人々の営為によって変化していく。
リサーチャーは、その変化を主導するまではいかなくとも、変化せず凝り固まった〈動機の語彙〉は、捨て去っていく勇気と気概をもつべきなのだろう。



■終わりに


先ほど例に上げた、カミュの主人公による、あまりに有名な殺人。
その、さらに有名な理由は、裁判シーンで主人公の男の口から直接発せられる。


「太陽が眩しかったから」


この突拍子もない動機をやすやすと許容できることは難しいだろうが、もし同じ回答が、商品の購買理由の回答で現れたとしたら、どうだろうか。これを受けとめられるくらい柔軟な、動機の〈語彙力〉を蓄えていくことはできるだろうか。




【参考】
ケネス・バーク 森常治 訳  『動機の文法』 1982 晶文社
チャールズ・ライト・ミルズ 『権力・政治・民衆』 1971みすず書房