株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

「相関」と比べてなぜか語られることの少ない、「因果」。この「因果とは一体なんなのか」という問題について、前回に引き続いて考えてみたい。


前編では、哲学者ヒューム、そして心理学者ミショットの因果論を主にとりあげながら、因果概念の歴史を少しだけ追ってみた。ヒュームもミショットも、それぞれ持論は異なってはいたが、両者ともに共通していたのは〈因果〉を「主観的な心の動き」を軸として考える方向性だった、とまとめることができるように思う。


しかし、彼らのように「習慣」や「主観」を切り口として因果を捉えてしまうと、それは「因果とは何か」をうまく説明するものというよりも、「人が因果を感じることはどういうことか/感じるならばそれはどういった場合か」へと問題の中心が移ってきてしまう。やはりどうも「因果」という関係性のあり方というのは一筋縄ではいかないところがある。


ここで参考程度にあげておくと、疫学においては、イギリスの疫学者ブラッドフォード・ヒルが1965年に発表した【因果関係の9つの規準】が有名である。
だが、下のリストを見ればわかるとおり、その規準は包括的で実務的である分、一見してやや曖昧さの残るものとなってしまっており、規準同士の関係もハッキリしていない。

疫学的因果関係9つの基準.gif

どうも因果論というのは、「これぞ」といった明確な定義の無いまま、しばらくの間人類の知的世界の中で放置されてしまっていたようだ。実際、統計学においても議論の中心になってきたのは常に「相関」であり、「因果」ではなかった。


マーケティング・リサーチの議論における「因果」についての関心の薄さも、こうした学問的雰囲気を忠実に継承している結果なのかもしれない。



■分析哲学上の〈因果〉の刷新


しかしその後〈因果〉概念は、英米系を中心にした「分析哲学」というジャンルにおいて、大きく刷新されることになった。
分析哲学(言語哲学とも呼ばれる)とは何かというと、それまで文学的で思弁的に論じられてきた哲学上の問題を、論理学的思考をベースにしつつ、「言語」を中心にして捉え直していこうとする現代哲学の一分野である。


どんな学問かは、一度書店で分析哲学の専門書を手にとってもらうのが手っ取り早い。論理記号のオンパレードで、ぱっと見たところではテクニカルな数学書のようである。


それだけでも、一般的にイメージされる「哲学」とは、ほとんど別物であることがすぐにわかってもらえるかと思う。(ただ、英語圏においては「哲学」といえばこの分析哲学の方をさすことも多い。)


一口に分析哲学といっても、取り扱うトピックは極めて多岐にわたる。
そして、〈因果〉に対する考え方を大きく変えたのは、ソール・クリプキ (Saul Aaron Kripke)という論理学者を中心として50年代から発展してきた、「可能世界論」という議論の枠組みである。今回はこの「可能世界論」というアイデアを少し紹介してみたい。



■可能世界というアイデア


可能世界論の基本的な考え方をごく荒く説明してしまえば、われわれが生きる現実世界を、「無数の可能世界のなかの一つとして考えてみましょう、ということだ。


わたしたちの暮らしている世界の周りには、似たような世界が数多く存在している、と想定する。これだけ聞くと突拍子もないオカルトチックなアイデアのようにも聞こえるが、可能世界論が面白いのは、一見無茶なこの想定によって、これまで曖昧なまま論じられてきた様々な哲学的問題を、クリアに明確に扱えるようになるということである。


そしてそのクリアになることの一つに、〈因果〉の問題系がある。ただその議論に入る前に、少し可能世界論のさわりに触れ、下準備をしておこう。



■可能世界論の基礎


まずは下図を見て欲しい。下の図において円で示しているのは、真ん中がわたしたちの現実世界、そしてその周りにあるのが、それぞれの可能世界である。こういったイメージをもってもらえるとわかりやすい。
この図でポイントとなるのは、真ん中の現実世界とその周りの可能世界は、その距離が近いほど「同じ世界」に近い、ということである。
 

可能世界(1).jpg


つまり、【可能世界A】と【A'】では、【A'】のほうが、現実世界との「異なり具合」が大きく、【A'】よりも【A】のほうが現実世界に近いことを、この図は示している。


例をあげてみよう。
【現実世界】では、スティーブ・ジョブズという人物が、ヒューレット・パッカードのインターンシップでスティーブ・ウォズニアックと出会い、Appleを立ち上げている。

【可能世界A】では、スティーブ・ジョブズという人物はヒューレット・パッカードのインターンシップには参加したものの、ウォズニアックという人物には出会わず、Appleも立ち上げていない。

・それより遠い【可能世界A'】では、スティーブ・ジョブズという人物はヒューレット・パッカードのインターンシップに参加しておらず、もちろんウォズニアックにも出会わず、Appleも設立されなかった。


というような関係をイメージしてもらえればいいと思う。




■反実仮想における必然と可能を考える


分析哲学には、「反実仮想」と呼ばれるものがある。
これは、一般的に言われるところの、「もし~だったとすれば、~だっただろう」といった、現実には無い仮定的な命題のことだ。


分析哲学ではこれを「反実仮想Counterfactual Conditional」もっと専門的には「反事実条件法」と呼ぶのだが、実は、〈因果〉の問題も、この「反実仮想」を使うことによってクリアな枠組みを与えることができる。


反実仮想的な考えには、2つの大きなパターンとして、「PならばQかも知れない」という〈可能性〉、と、「PならばQである」という〈必然性〉がある。この「ならば~」の部分がまさしく反実仮想にあたるのだが、この2つを分析哲学の論理記号では、次のように表記する。


【必然性】  :「PならばQである」       P□→Q
【可能性】  :「PならばQかも知れない」  P◇→Q

         ※「Qでない」ことは、「~Q」と表される。


以上のことを念頭に置いて、「必然性」と「可能性」を図に示してみよう。(三浦1997,38を参考に簡略化)


■「必然性」は、下の図のように 【Pが成り立っているたくさんの可能世界のうち、現実世界に最も類似した諸世界のすべての世界において、Qが成り立っている】という事である。


必然性(2).jpg

 
■対して、「可能性」とは、【Pが成り立っているたくさんの可能世界のうち、現実世界に最も類似した諸世界において、Qが成り立っている世界が少なくとも一つはある】ということになる。下の図では、半分の可能世界においてP→Qが成り立っていることが示されている。

可能性(3).jpg

■因果とは何か


だいたいの感覚を掴んでもらったところで、ようやく「xがy の原因である」という因果関係を、可能世界論を下敷きにしながら表してみよう。
 
まず、言葉で整理してみる。
 「事象x を原因にして、結果としての事象y が起きる」ということはつまり、「xが起こっている世界では、yが起きている」ということである。そして反実仮想を用いて言えば、「もしx が起きないならば、yも起きていない」ということを意味している。


この「xが起こっている世界では、yが起きている」ということを、「x→y」と便宜的に表しながら、可能世界のイメージ図にあてはめてみよう。


因果(4).jpg

 
ここでのポイントも、真ん中の現実世界(真ん中の円)とその周りの可能世界(周りの円)は、「x」の要素以外は「全く同じ」世界であるということだ。すると、そのxがあるかないか、という2種類の可能世界は、「xも起こらず、yも起こらない」世界と、「xが起き、yも起きる」世界の2種類に分けられた。
これが、いくつ可能世界を考えても同じならば、それは「xがyの原因である」ことを表している。


つまり、たくさんの可能世界が想定されるなかで、現実世界も含む「x」が起きている世界では、それに続いて「y」が起きている。なのに、現実世界とは「xが無い」ということを除いて全く同じである他の可能世界において「y」が起きていないならば、「xがyの原因である」という因果関係が成り立つ、という整理がされるわけだ。




■因果論の根本問題


この「可能世界論」を用いた因果論と、冒頭にあげたヒルの9規準と比べてみても、その明晰さは一目瞭然であろう。
わかってしまえばなんという事のない説明に見えるかもしれないが、「可能世界」というツールを用いずにこのことを整理するのは相当に困難な作業である。この可能世界論による概念的明確化によって、放置されてしまっていた因果論は大きく前進したとされている。



だがしかし、話はここで終わらない。


因果概念を刷新した可能世界論による因果論は、とてつもなく大きな問題も同時に残していったしまった。
それは、


現実世界とは別の可能世界は、絶対に現実世界から「観察することができない」ということである。


どんなにx以外の要素が似ていようが、xが起きた世界と、xが起きていない世界を「同時に」観察することは絶対にできない。観察できてしまったら、観察されたその世界はすでに可能世界ではなく、「現実世界の要素」になってしまうからだ。


このように、可能世界論による因果論は、「因果とはどういうものか」という難解な問題をクリアに見通せるための強力な概念装置を発明したが、その明晰さによって、「真の因果」なるものへは到達できないことまでも陽のもとに晒しだしてしまったのである。
こうなってくると、普段リサーチ実務の現場で「擬似相関に惑わされず、真の因果をつかめ」と言っているリサーチャーのお題目は、根本から崩れて落ちてしまったことになる。



■〈因果論の根本問題〉を前にして


前回から2回にわたって、ふだんリサーチの現場において「相関」の裏に隠れがちな「因果」について考えてみた。やや「社会学のすゝめ」らしからぬエントリーとなったが、結論としてはどうも、〈真の因果〉を観察から突き詰めることは、遂行することのできない夢物語だったようだ。


ただし、「真の因果に辿りつけないこと」は、「真の因果を求めること」の禁止を意味しない。事実、こうした因果論の根本問題を前にして、現在の統計学は、〈因果〉を完全に把握することではなく、それを漸近的に推論するテクニックを開発してきている。


そうした高度な統計学の現状を論じることにこそ実は実務レベルでの意義はあろうかと思うが、その説明は残念ながら筆者の能力を大きく超える。そのあたりは詳しい方にお任せすることにして、後編の筆を置きたいと思う。



【参照資料】
林岳彦氏の資料 http://www.slideshare.net/fullscreen/takehikoihayashi/ss-13441401/1
飯田隆『言語哲学大全Ⅲ』(勁草書房)
三浦俊彦,1997,『可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える』 (NHKブックス)
Ausin Bradford Hill "he Environmen and Disease:Associaion or Causaion?"
http://www.edwardtufte.com/tufte/hill