株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

今回の「社会学のすゝめ」は、メルマガタイトルから少し遠ざかって、どちらかと言うとやや哲学寄りの話をしようと思う。哲学と言っても、ニーチェはこう語ったのような現実離れした話ではないので安心されたい。


むしろ今回は、〈因果〉とは一体何なのかという、リサーチャーならダイレクトに関係のある(はずの)トピックをとりあげてみる。リサーチャーならずとも、日常的用語として親しんでいる「因果」について、速まりはじめた年末進行の足を少しだけ緩め、あらためて考えてみたい。



■〈因果〉と〈相関〉の蜜月


「因果と相関を混同するな!」


これはリサーチャーの教科書のだいたい真ん中あたりに書かれている調査技術論の金科玉条である。
このように、実は調査従事者にとって「因果」という言葉は、「相関」とのセットで問題になることが多い。その中でも、前回のメルマガでも触れた「擬似相関」の問題が最も多く話題にのぼってくる。


例えば、「コーヒーを週に●回以上飲む人は、コーヒーを全く飲まない人と比べて発がんリスクが●倍になる」というようなことが言われているとしよう(実際言われているような気がする)。そうしてそこでは次のような散布図が引かれる。
 

コーヒー×発ガン率グラフ.jpg

しかしこの図を観た分析者が映画好きだったりすると、ここでアメリカインディーズ映画界の雄ジム・ジャームッシュの映画、『コーヒー&シガレッツ』を思い出す。かの映画の中でイギー・ポップとトム・ウェイツが囲むテーブルの上にあるのは、タイトルどおり、コーヒーと"タバコの灰皿"だった。頭に浮かんだそのシーンは、「コーヒーを飲む頻度は、タバコを吸う頻度と正の相関がある」というもう一つの事実に分析者を思い当たらせたりするわけだ。


そこで、先ほどの金科玉条をもう少しこなれた言い方で繰り返そう。


〈相関関係〉は〈因果関係〉を含意しない ――Correlation does not imply causation――


つまり、コーヒーの飲用頻度と発がん率は、相関関係はあるものの、それが「コーヒーを飲むとがんに罹患する」という因果関係かどうかは怪しい(これだけのデータでは判断できない)、という結論になる。そして、こうした話の最後には、「見かけの相関=擬似相関の罠に陥らずに、正しい因果関係をデータから見出すことが大切ですよね」というオチがつくのが定石である。


ここまではどの教科書にも書いてあることだ。


だが、そういった言質の中で「正しさ」の側に置かれている〈因果〉について、深く考えたことがあるリサーチャーはおそらく少ない。少なくとも調査法の一般的教科書で因果についてきちんと説明したものを、管見にして知らない。


因果、つまり「ある出来事が、ある別の出来事の原因になる」とは一体どういう意味か?
その真相を解き明かす、とまではいかないものの、その輪郭くらいはつかむために、ここで少しだけ〈因果〉という考え方の変遷をたどってみよう。



■宗教的世界における「因果」


そもそも「因果」という日本語は、サンスクリット語で「原因と結果」を示す"hetu-phala"にあてられた漢語であり、仏教からきた言葉である。それは、輪廻転生を信じる〈業〉の教説と、「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いは不幸をもたらす」とする〈因果応報説〉の信仰に関わる言葉だった。善行(A)が、輪廻転生後の幸福(B)を生じさせるのですよ(だから善行を行うべし!)という教説が、「原因AによってBが生じる」のロジックの形で説かれたわけだ。


では西欧ではどうだったかというと、因果性Causalityについての議論はやはり宗教的な観念と結びついており、かの有名なアリストテレスは、世界の様々なできごとの原因を、原因の原因、またさらにその原因…と遡っていくその究極的な原因について、「神」を引き合いに出して語っていたりする。


しかし、アリストテレスが活躍した紀元前300年代以降、人文知の世界では「因果」は本格的に語られることが少なくなる。これは不思議なように思えるが、「AがBを引き起こす」といえば、多くの人はそれをスンナリと理解できてしまうため、因果の問題はあまり人びとの知的好奇心をくすぐってこなかったのかもしれない。もう少し近代的というか脱宗教的な思索としては、スコットランドの思想家デヴィッド・ヒューム(David Hume 1711-1776)の因果論を待たなければならなかった。



■デヴィッド・ヒュームの懐疑論


そして、久しぶりに因果を哲学の俎上に載せたヒュームは、主著である『人間本性論』において、その「多くの人がスンナリと理解できてしまう」ことを〈因果の本質〉近くに据えるという、一種のちゃぶ台返しを行った。
 

HUME人間本性論.jpg

ヒュームの言ったことを極端に簡単にすると、「因果関係は心の中にある。むしろ心の中にしか無い」という風になる。


もう少し説明すると、「AによってBが引き起こされる」という因果関係は、「Aという出来事に後続して起こるBという出来事」という繰り返しを、その人が何度も見ることで体得されていった、習慣的な心の動きでしかない。確かに多くの場合、原因とされる事象と結果とされる事象は見たり触れたり観測したりすることができるが、原因と結果を結びつけている因果という関係そのものを直接知覚することはできない。


こうした「ヒュームの懐疑論」と呼ばれるヒュームの論によって、〈因果〉という概念は、因果応報説と同じぐらい、もしかするとそれ以上に主観的で感覚的なものであり、それ以上のものではない、という限定的な見方がされるようになった。



■因果関係は知覚できるか―ミショットの実験心理学


しかし、はたして本当に因果関係は知覚できないのだろうか。ヒュームが否と断じたこの議論に異を唱える形で、「因果関係は知覚できる」ということを実験によって示そうとしたのが、ベルギーの実験心理学者ミショット(Albert Edouard Michotte 1881-1965)である。


その成果の初歩的なものをここで紹介してみよう。


それは、【ラウンチング効果 Launching effect】および【エントレイニング効果 Entraining effect】と呼ばれているものである。


それぞれ簡単に説明すると、今、被験者の前に、赤い正方形Aと青い正方形Bが一定の距離をおいて置かれている。
そこから、正方形AがBに向かって右側に移動していき、Bに接触するところまでは2つとも同じである。


そこから【ラウンチング効果(打ち飛ばし効果)】では、Bに接触したAはそこで留まり、BはAが移動してきた速度と同じ速度で右側に移動していく。
【エントレイニング効果(引き連れ効果)】では、Bに接触したAはBと一緒に、それまで移動してきた速度と同じ速度で右側に移動していく。
文字よりも下の図を見てもらったほうが理解が早いかもしれない。
※なお、下図はミショットの装置を説明上簡略化したもので、元々の実験はもっと厳密な条件下で行われた。
 

Lauching Effect.jpg
Entraining Effect.jpg

これらの2タイプの運動を目の前で観察した被験者のほとんどが、次の印象を報告したという。


 2効果の印象.jpg

この結果によってミショットが示したのは、両タイプの効果とも、被験者は「先行するAの移動が、後続するBの移動の原因になった」という〈因果関係〉を、直接知覚したということである。シュミットは、この実験の応用として、知覚から得られる〈因果〉の印象の条件をさまざまに考察していくことになる。心理学の門外漢からしても、なかなか面白い実験である。



■因果論、その後


ここでは、哲学者ヒューム、そして心理学者ミショットの因果論を主にとりあげてみた。それぞれ持論は異なれど、両者ともに因果という概念を主観的な心の動きを軸にして語ろうという方向性は同様であった。


しかし、その後、発展した現代哲学の分野では、〈可能世界論〉という新しい潮流が、因果についての考え方を大きく刷新することになるのだが、その紹介は次回ということなる。




【参照文献】
David Hume ,『人間本性論』 Treatise of Human Nature.(=2011 木曾好能訳 法政大学出版局)