株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
企画部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

今、伝統的なマーケティング・リサーチに変革を迫る声が、そこかしこであがっている。


こうした「変革への要求=イノベートせよ!」は、決して珍しいものでも新奇なものでもなく、資本主義社会が不断に求めてくる構造的なものであることはすでにこのメルマガシリーズでも述べた。だが確かに、インターネット調査の登場から十数年が経ち、ビックデータ、ソーシャルメディア、DIY調査の台頭といった「外部」の変化によって、マーケティング・リサーチがまた新たな差別化の必要を迫られているのはおよそ疑いないだろう。


不断の変革が「あたりまえ」のことならば、本当の問題は、「その差別点となるのはどこか」であり、そこにしか〈問題〉はない。しかし、そのあたりを明示してくれる言葉はどうもあまり見当たらないようだ。


見つからないなら自分で考えるしか無いということで、浅学な筆者なりに、「基本」に立ち返ることにした。今回と次回のエントリを使って、調査の基本的な思考プロセスを、もう一度考えなおしてみることにしたい。そこで着目したのは、「経験から理論へ」というプロセスである。



■「経験的一般化」の神話?


経験的「観察」から、より一般的な「理論」を導く、という帰納的なプロセス。
このプロセスは、あらゆる経験的調査の基本中の基本とされている。たしかに、完全な全数調査など現実的に不可能なのだから、どんな調査もこうした「個別事例から一般理論へ」という道筋を辿らざるをえない。方法論の教科書などでは「経験的一般化(Empirical generalization)」ともよばれるそのプロセスは、すべての調査的思考が始まる場所であり、終わる場所でもある。


しかし、この「経験から理論へ」というスローガンが、「経験的観察(データ)を集めると、そこから理論が生み出される」という短絡を導くならば、それはおそらく、スローガンとしては誤りと言っていい。〈観察(データ)〉と〈理論〉との間には、スキップしては飛ぶことのできない大きな隙間が口を開けている。そして、この谷間の奥にこそ、現代のリサーチャーが差別化を実現するための光があるのではないか、という気がしている。


この根本的なプロセスを考えなおすには、やはり根本的な例を題材に考えるのが手っ取り早い。ということで今回のエントリは、社会学史上に燦然と輝く古典として、エミール・デュルケームの著『自殺論』をとりあげたい。



■巨星・デュルケーム


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エミール・デュルケーム(1858-1917)は、オーギュスト・コントに続く社会学の祖の一人として知られる、フランスの社会学者である。現在ではアメリカ流の経験的社会学が一般的なことから、アメリカが社会学発祥の地であるような誤解もあるが、実際には社会学的考え方のほとんどは、フランス・ドイツ・イギリスで産声を挙げ成長してきた。


デュルケームは、博士論文である『社会分業論』から始まり、『宗教生活の原初形態』、『社会学的方法の規準』などの今なお語り継がれる著作をものしたことで知られ、世界の歴史上はじめて「社会学」を冠した講座を大学でスタートさせたのもこの人である。


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その中で、今回取り上げるのは、1897年、デュルケーム39歳の時著された『自殺論』である。オフィスデスクに置くにはやや物々しいタイトルの本だが(現在の筆者の机には周囲からの不穏な視線がそそがれている)、デュルケームの多くの業績の中でも、代表的なものとして名高い。
 

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そして、この著作でデュルケームが行ったのは、「経験的データから社会学的な命題を導き出す」、という今回のエントリのテーマとなるプロセスの、まさにお手本ともいえる模範的分析である。(※1)



■『自殺論』はなぜ書かれたか


この本でのデュルケームのテーマは簡単かつシンプルだ。
彼がここで答えようとした問題は、「人はなぜ自殺するのか」という、いつの世にも立てられる普遍的なテーマであった。十九世紀半ばに起こった産業革命後、資本主義経済がフランス社会を大きく変えていく激動の時代にあって、デュルケームは社会全体が無軌道な方向に進んでいく危機感を感じていたようだ。その課題意識の中から、彼は当時のヨーロッパ全体に広く見られた「自殺率の増大」という切迫したテーマを選び出している。



■デュルケームの論法


『自殺論』がお手本になる理由は、まず、その論述の方法・スタイルにある。
下の図にまとめたように、デュルケームはまず「自殺」という現象を定義し、そこから既存の解釈を論破していく。その後、自らの分析から導き出した「自殺の類型」論に進み、最後に現象についての一般理論へと導かれていく。


素人にはあまりに長いし、読み物としてのエンターテイメント性にはやや欠ける面はあるものの、学術的研究の報告としては実に見事な隙のない構成になっている。思弁的な論述が主流だった当時の理論家たちのなかで、デュルケームのこうした緻密さと堅実さは精彩を放っていた。

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デュルケームが自殺についての考え方として否定したのは、自殺を精神障害などの心理的要因に帰したり、人種や遺伝、個人の模倣を原因として捉えていた、それまでの学説である。紙幅の関係で紹介は避けるが、各種データを挙げながらこれらの説を一つずつ論破していく様には、議論の精密さを担保したいという、強い執着心すら感じとれる。



■自殺の三類型


そのようにして既存の解釈をことごとく退けたデュルケームは、自殺にまつわる各種統計を分析し、自殺行為を以下の三つの類型に分類した。この類型は、大学の社会学入門といった講座では期末テストにほぼ必ずと言っていいほど出題されるため、覚えておいて損はないかもしれない。

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■自殺の三類型〈Ⅰ〉――自己本位的自殺 


デュルケームの大きな問題意識として、産業革命後の社会に蔓延してきた「個人主義」の影響がある。この「自己本位的自殺」は、その個人主義の拡大に伴って増大してきたものとされる類型である。

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デュルケームの統計分析によると、カトリック教徒はユダヤ教徒より自殺率が高く、さらにカトリック教徒よりプロテスタント教徒のほうが、それぞれ自殺率が高くなっていた。そして、農村部より都心部のほうが、未婚者より既婚者のほうが、自殺率が高いことが確かめられた。


デュルケームは、これらの特徴の原因について、社会的なまとまり具合が弱く、個人化の程度が高いほど自殺率が高くなっている、と分析した。プロテスタント教徒は、カトリック教徒やユダヤ教徒よりも、個人主義に親和的な道徳感をもっており、それを高い自殺率の要因としたのだ。都市は農村より、既婚者は未婚者よりもより孤独に近い、ということだ。


この考察だけを見ると、社会的なまとまり=社会的凝集性が高いほど自殺は少なくなるように思える。しかし、デュルケームの分析は、それほど単純な結論を導くものではない。


次の「集団本位的自殺」を見てみよう。



■自殺の三類型〈Ⅱ〉――集団本位的自殺 


集団本位的自殺.gif

「集団本位的自殺」が示しているのは、集団的な凝集性が高すぎても、時としてそれは自殺を招くということだ。社会生活においては、集団的価値規範が、個人を死に追いやることがままある。


この型の自殺の理解のためには、日本の武家社会における「HARAKIRI:切腹」の伝統を思い出すのが手っ取り早いだろう。「誇り」を守り「恥」を避けるために自ら死を選ぶ武士の切腹は、この集団本位的自殺にあてはまる。あまりに集団的な価値観を内面化しすぎると、その価値に殉ずるものがでてくる。敵前逃亡しないという価値を身にまとっているがゆえに必死の戦地に突撃する兵士や、長年連れ添った夫の死を追って自死する妻なども、この型の自殺者に当てはまる。



■自殺の三類型〈Ⅲ〉――アノミー的自殺


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「アノミー的自殺」は、社会が経済発展を遂げると同時に、それまでの社会の規範が緩みより多くの自由が獲得された結果、人びとが欲望を果てしなく追求し続けてしまうことに所以する自殺である。
離婚が制限されている社会よりも離婚が容認されている社会のほうが自殺率が高かったり、不況期よりも好景気のほうが自殺率が高まったりすることがあるのも、この類型が説明してくれる。



■『自殺論』の教え〈1〉 ――デュルケームの核心


ここまでデュルケームの分析内容をざっくり紹介した。詳細は原著にあたっていただくとしても、この『自殺論』における彼の貢献の核心はなんだろうか。


ここで、自殺という行為に向けられる一般的な目線を考えてみよう。
「とめることができずに悔しい」 「もっと辛い人もいるのに。甘えだ」 「ゆっくり休んでほしい」…、どうしても虚しい響きをぬぐえないこれらの言葉に共通するのは、自殺の理由を、死を選んだその人「個人」の問題として捉えていることだ。


『自殺論』におけるデュルケームの核心は、こうした、この上無いほど〈個人的〉なものに見える自殺という行為が、実は〈社会〉によって支配されている、ということを示したところだと思う。



●個人的であるがゆえに、個人的な要因で起こると思われがちな自殺という行為を、大局的なデータと俯瞰的な視線によって、社会的変数へと読み替えていくこと。


●【社会】は、たしかに【個人】が集まって成り立っているが、それは、決して【個人の総和】とイコールではないことを示すこと。


このことを示したデュルケームの思考には、アメリカの社会学者C.W.ミルズが言うところの「社会学的想像力」が存分に発揮されている。これこそ、デュルケーム社会学が、その後の社会学に残したもっとも大きい「教え」だと筆者は思う。



■『自殺論』の教え〈2〉――擬似相関を「裏返す」


次の図は、「プロテスタント教徒が多い地域では自殺率が高い」というデータを前にした時の、デュルケームの思考のプロセスを図示したものだ。

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(宮島,1989)の図を元に改定


【A】の道筋をたどると、プロテスタンティズムの教義の内容や特質が、高い自殺率を生んだ、と読んでしまうことになる。だが、デュルケームは、【A】の論を採用せず、「擬似相関」として棄却する(デュルケーム自身はこの言葉は使っていないが…)。デュルケームは【A】を通らない代わりに、「社会的統合度」という変数を新たに配置し、自殺率の分析をつらぬく、より抽象度の高い【B】の回路を選んだ。


「擬似相関」はリサーチャーなら誰でも知っている通り、現在のリサーチの教科書のほとんどが触れている「調査のワナ」である。それは往々にして「避けるべきこと」「分析の失敗」として取り上げられている(※2)。


ただ、そうしたこの「擬似相関」の裏にあるものには、あまりスポットがあてられない。
つまり、「どのような発想が、擬似相関を避け、有効な相関を導けるのか」という問題だ。


デュルケームの自殺の分析の場合、どうだっただろうか。
ここで擬似相関のワナを回避するために用いられた「社会の統合度=社会的凝集性」の概念は、決してデータとしては観察されない、デュルケームのクリエイティブな創作概念である。



■〈仮説的変数〉とリサーチの創造力


こうした概念を専門的には「仮説的変数」と呼んだりもするが、デュルケーム『自殺論』がこの世に名を残すような業績にとなり得たのは、ひとえに彼がこの〈仮説的変数〉を思いつくかどうかにかかっていたといってもいいだろう。


そして、重要なのは、この〈仮説的変数〉は、実地に観察できないということだ。それはデータに直接現れない変数のため、どんな巨大なビックデータでも、どんな緻密な統計手法も、決して機械的に弾き出すことが出来ない。


『自殺論』についても、たとえデュルケーム以外の論者がまったく同じデータを分析したとしても、この〈社会的凝集性〉の概念をひらめいたかはどうかはわからない。そして、この変数を思いついたところに、デュルケームの〈天才〉がある。どうやらこのあたりに、「リサーチャーの差別点」のヒントがあるような気がしてこないだろうか。


次回のエントリは、もう一つ社会学的な有名な業績『American Soldier』を引きつつ、もう少しこの〈仮説的変数〉のこと、ひいてはリサーチャーのクリエイティビティのことを深く考えてみたいと思いう。



【参照文献】
エミール・デュルケーム『自殺論』宮島喬訳(中公文庫)
宮島喬、1989、『デュルケーム「自殺論」を読む』 岩波セミナーブックス


【注】
(※1)もちろん時代的制約はある。現在では、デュルケームが用いた統計データやその見方へは多くの疑いの眼差しを向けられており、自殺研究においても、彼の論にそのまま依拠する研究者は存在しない。しかし、この業績が生まれた思考のプロセスは社会学的な発想のひな形として広まっており、いまでも「社会学入門」などの講義において取り上げられることが多い。


(※2)ちなみに、こうした擬似相関と実質的な相関を明確に区別する必要を説いた社会学者も、デュルケームが端緒とも言われている(宮島1989)。