株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー

フィールドワーク部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

「ソーシャルメディアは社会を変えるのか。」

前回のエントリの冒頭において、近年世間を賑わすこのテーマを、「新たな情報技術が登場するたび、それが『社会を変える』と言われ続けるのはなぜなのか」というより一般的なトピックへと変換した。

Facebookやtwitterに代表されるソーシャルメディアは、世界中の人々のコミュニケーションを変え、人々の関係や組織のあり方、ひいては〈社会〉の総体を変えていくかのように語られている。しかし、それらの語り口は、この半世紀の間、テレビ・スパコン・携帯・パソコン・インターネットなど、メディアを中心としたあらゆる情報技術の隆盛時に現れては消えていった言葉たちと全く同型のものであった。

「情報化社会」なる大げさな表現こそ廃れた感があるものの、情報技術と社会を語る声の中には、「社会変革」への漠然とした、ただ確固としてある夢が大なり小なり混じり合う。

そのように繰り返される「メディアが社会を変える」の論理について、前回、次の二点を指摘した。

  Ⅰ.その論理の骨子にあるのは、社会を情報技術のアナロジーで語ることによって「社会の不透明さ」を「技術の明確さ」で埋め合わせる、という構造であり、

  Ⅱ.それは繰り返し現れてくるのは、「技術発展による進歩」という近代産業社会そのものが持つ性質によるものである。

そして前回説明を加えたのは、このⅠの点についてであった。

そこでは、
(1) 「大型計算機」「システム」「ネットワーク」などの無理のある【技術】のアナロジーが
     現実の【社会】に無理やり当てはめられつつ、
(2) その社会に重ね合わされた【技術】の側が変化すると同時に、【社会】の側も変化する、
     という飛躍的論理が繰り返されていた。

そしてその背景に、「曖昧で複雑な社会の姿を、明確で目に見える技術の比喩によって理解した気になりたい」というこれまた〈社会的な〉願望を指摘した。

本エントリでは、Ⅱの論点について詳しく見ていくことにしよう。そこでは、Ⅰのトピックよりもさらに歴史的で、より根本的な「社会」の姿が垣間見られることになる。



近代産業社会とは何か


Ⅱにおいて焦点となるのは「近代産業社会」のあり方についてだが、それについて説明を施す前にまず、もっと基本的な問いを立てるところから考えてみたい。

それは、経済において、「〈利潤〉はいかに発生するか」という問いである。ここで言う利潤とはいわゆる「儲け」のことだとざっくり考えてもいい。企業もそれに属する人々も、皆この「儲け」を目指して日々活動していることは論を俟たない。この単純な問いを出発点として、産業資本主義社会の原理を明らかにしていく。


〈利潤〉を生む差異


さて、普段我々が行なっている経済活動の基本は「等価交換」にある。このことから確認しよう。

例えば食パン一斤を200円で買うとする。当然のことだがそれは、その食パン一斤の価値が200円分の貨幣の価値と等価であることを前提としている。でなければ売る側はその食パンを譲らないだろうし、買う側も200円を渡すことはない。

お互いにそこに等価な価値を見出しているからこそこの食パンの売り買い=交換は成立する。ここではこの交換を等価交換と呼ぶ。

しかしこの等価交換は、経済全体にとって利潤(=儲け)を生み出さない。人々が価値の等しいものをいくら交換しあっても、そこからは元の価値を超える価値が生まれることはないように感じられる。では、儲けを目指す経済活動はどのように行われているのか。

この等価交換と資本主義が織り成す不思議な関係について、シェークスピアによる戯曲「ヴェニスの商人」を素材として巧妙かつ平素に説いた岩井(1985)の論をここで参照しよう。

等価交換の繰り返しによる一見無駄にも見えるやり取りから一歩進んで、利潤を発生させるための鍵は、岩井によれば、「ふたつの異なる価値体系の狭間(岩井1985=1992,58)」にある。

価値についての二つの異なる基準があり、それらを行き来することができれば、そのある一方の基準で安いものを買い、他方の基準で高いものを売ることで、そこに〈利潤〉は産み落とされる。等価交換が支配する無常な循環は、この「他方」と「一方」の間隙から突破することができるはずだ。

岩井は、『ヴェニスの商人』におけるキリスト教信者のアントーニオとユダヤ人のシャイロックが属する異なる共同体のもつ価値基準を、その「一方」と「他方」に見立てて説明したのちに、この価値体系の差異を宿す「狭間」となる具体的な舞台を、歴史的な三段階に分けて説明しているⅰ) 。(岩井1985=1992,79)


まず、有史以来の【商業資本主義】の段階。

ここでの主な経済活動は、距離が離れた地域同士の交易、つまりそれぞれの場所に根付いている異なる価値体系の間のモノのやり取りである。古代ローマの時代から人は、船や馬などの交通手段を用いて、物理的に乖離した二つの価値体系の差異を行き来する(媒介する)ことによって利潤を発生させてきた。この段階における「他方」と「一方」は、空間的に離れた二つの価値体系になる。

商業資本主義.png


◇18.19世紀における産業革命以降、貨幣経済は、【産業資本主義】の段階に突入する。

工業制機械工業(マニュファクチュアリング)の発達に伴って、差異の「狭間」の位置は変化していく。この段階では、生産手段を独占的に所有している資本家(企業家)が、【労働者が持つ労働力の価値】と、彼らが創りだす【生産物の価値】との差異から利潤を創りだしていく。労働力の価値以上の価値を持つ生産物を生産することによって生まれる剰余的な価値が、資本家の元に手に入る。この構図を指して「搾取」と糾弾したのがかのカール・マルクスである。
 

産業資本主義.png

◇この【産業資本主義】は、さらに【後期(ポスト)産業資本主義】へと進展する。

利潤を生み出す「差異」は、媒介されることによって消失していく。

交通手段が発展することで空間的な移動による価値ギャップが失われ、さらに資本全体の拡大することによって、「労働者階級」と「資本家」の境界線が消失していった。こうした外在的な要因が価値に差異を生まなくなったとき、資本主義は、〈利潤〉を生み出す差異の源泉を資本主義〈内部〉に求めるしかない。

そこで、その内部的差異の主要な源泉になってくるのが「技術革新」である。


「革新」と「欲望」の両輪


ある企業が他の企業に先駆けて新しい技術を開発/採用し、労働の生産性を高めたとする。それは無論生産コストを抑えて商品・サービスを作ることに直結し、他の企業よりも安く、早く、優れた商品を売ることができる。そこに生まれるのは、技術革新によって先取りされた「未来の価値」と、他企業が採用する「現在の価値」との差異である。

現代マーケティングで声高に叫ばれ続ける「イノベートせよ!」の号令は、この内部的にしか差異を創造することができなくなった後期資本主義のメインエンジン、「技術革新」のことを正しく指している 。
 

後期(ポスト)産業資本主義.png


また、価値は売り手だけが決めるのではない。消費者の側にとっても技術革新によって生まれる優れた商品・サービスを買い、より豊かな暮らしを目指して少しでも高い〈未来の価値〉を求めていく。ここに、追いつけ追い越せと「豊かな暮らし」を欲望し続ける消費社会への道筋が見えてくる。この消費者の【豊かさへの欲望】企業の【技術革新】は車の両輪のようにして、〈価値と価値との間隙〉をこじ開けるダイナミクスを支えている。

そして〈利潤〉は生まれゆく。


産業資本主義の無限運動


しかし、現在の企業人ならば誰しも身をもって体験しているとおり、イノベーションがその名で呼ばれる時間の幅は、ますます短くなっていく。ここでもやはり「差異」は媒介によって消失していく運命にある。

技術革新は「価値体系の隙間」を生み出し〈利潤〉を創出する原理的な運動だが、技術革新によって〈未来の価値〉をまとって世に出た商品は、競合者からの模倣を免れ得ない。瞬く間に技術はマネされ、盗まれ、〈未来の価値〉は〈現在の価値〉と等しくなり、差異そして利潤は消えていってしまう。差異は常に相対的で、動態的だ。

このように、産業資本主義とは、技術革新とそれを求める消費者の欲望によって、半永久的に内部に差異を作り続ける、動的なメカニズムを持った社会なのである。



ここまでくれば、新しい情報技術がなぜ常に持て囃され、「社会を変える」と言われ続けてきたかわかるだろう。

「暮らしの変化」を「社会の変化」と等値すれば、それは確かに変化している。情報技術は、われわれの生活を大きく変えた。しかし、「暮らしの変化」は産業資本主義社会が〈利潤〉を生み出し、産業資本主義社会であり続けるための必須条件である。

暮らしの変化の表面的なわかりやすさは、Ⅰで指摘したような社会への技術アナロジーを招き寄せるが、それを〈社会の変化〉と置き換えてしまうのは、社会を理解したいという願望に歪められた錯誤である。


結論――「メディアが社会を変える」の錯誤


まとめよう。Ⅱの論点からは、「メディアが社会を変える」の言説は、以下の点で誤っていることが指摘できそうだ。

まずは、その言説の論理に内在的な誤りが二つある。

1. 産業資本主義社会で〈利潤〉を発生させるのは、【豊かさへの欲望×技術革新】の両輪であった。「メディア・が・社会・を・変える」という論理は、その両輪の片側、「技術革新」の方だけ注目してしまった結果、【メディア】→【社会】の一方通行の回路を捏造してしまう。

2 .そして、産業資本主義のもう一つの重要な性質として、その両輪は「回り続ける」。
「特定の技術が、社会をある姿から別の姿へと変える」という発想では、その運動の反復性・無限性を把握できない。〈利潤〉を生み出すべく差異を創り続ける産業資本主義の動的な作動を、ある〈技術〉が登場した時点でバッサリと切り取ってしまう近視眼的な錯誤に陥っている。

そして、より大きく根本的な誤りは、

「技術が社会を変える」という声を上げている間、人はそれが産業資本主義の成立以来ずっとわれわれが住んでいる社会から発される声であること、そのことに気がつくことができない。


「イノベートせよ!」は、ここ数百年われわれが生きている産業資本主義社会が、〈利潤〉を求めてずっと繰り返してきた命題であり、社会の基本構造はここにおいて少しもブレることなく不変である。


確かに、メディア決定論的な議論には可視的な「技術」を前提にできる分かりやすさがある。「技術による社会変革」には、驚くような未来社会のあり方を夢想する高揚感がある。
新しいメディアが登場するたびに、健忘症的にこの同じサイクルは繰り返されてきた。そんな技術の夢物語にはみなどこか飽き飽きしているはずなのに、利潤を生み出す技術革新の運動には「今度こそは」と思わせる麻薬的な魅力がある。

現在の最新の〈技術革新〉であるソーシャルメディアの周りにも、その麻薬の熱に浮かされた言葉はまとわりついている。その誘惑に吸い込まれないためにも、忘れないようにしたいのは次のことだ。

技術を発明するのも、使うのも、広めるのも社会の側であれば、「技術と社会」について語るのもまた社会でしかない。これが今回のエントリにおける「社会学のすゝめ」となれば幸いに思う。


【脚注】
ⅰ)現在世界で最もinnovativeな企業の一つと目される米Appleが、2012年第1四半期に463億ドルを売上げ、130億ドルの純利益を発表したことは記憶に新しい。

【参照文献】
岩井克人,1985=1992,『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫.
佐藤俊樹,1995,『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ)