株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
フィールドワーク部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

チケットを買い、入場ゲートをくぐると、きらびやかな耳慣れた音楽が流れ始める。

バザールを抜けた客たちは、ウェスタンランドで西部開拓時代を歩いたと思ったら、ミクロワールドで近未来SFの世界に飛び込み、シンデレラ城では豪華絢爛な中世ヨーロッパの雰囲気に飲み込まれる。
歩みを進めるごとに、まったく別の背景、ストーリー、歴史を持った舞台が、縦横無尽に目の前に現れてくる。熱帯性気候のジャングルとカリブ海の海賊すら、ここでは「アドベンチャー」を共通項として同じエリアに強引に割り当てられるⅰ)

わたしたちは、遍在するミッキーマウスのキャラクターを案内役として、このごちゃ混ぜの空間を「ディズニーランド」という一つの世界として認識し、独特の浮遊感に似た夢心地を楽しんでいる。よく知られるように、その夢心地を邪魔するような外(舞浜)の町並みは、内部からは決して見えることのない視線誘導が周到に設計されている。

ディズニーランドのこの現実からの乖離した雑多な要素の並列性は、現代消費社会の記号的な側面を象徴しているようだ。一つの例としてその夢の国を浮かべつつ、前回のエントリで紹介したボードリヤールが展開した記号消費の理論を追っていこう。
記号消費とは何か


前回述べたとおり、消費社会化の進行とともに、新しい製品が提供する「機能」や「効能」の伸びしろは徐々に減少していった。大量生産大量消費の時代は、多品目多品種生産に取って代わり、マーケティング界では消費者一人一人に寄り添った「顧客志向」が謳われ、「上に上に」の機能向上ではなく水平方向の違い=「商品差別化」がその第一命題となった。

そんな中登場したボードリヤールの代表作『消費社会の神話と構造』
その最大の貢献は、物を買う際の「欲しいから買う」「必要だから買う」といった、需要や欲望を前提とした購買という考え方を覆し、「効用と機能」というそれまでの消費分析の論理を一変させたところにある。代わりに持ち出されたのが〈記号消費〉という彼独特の説明モデルである。

社会学_消費社会の神話と構造.jpg

(一)、消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
(二)、消費はもはや個人や集団の単なる権威付けの機能ではない。
(三)、消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。

                                                   (Baudrillard, 1970=1995:121)

ボードリヤールによれば、後期消費社会において商品の価値は、使ったり所有することからくる効用(使用価値)から離れていき、消費活動は、記号的な差異を交換する言語的なコミュニケーションと同様の行為になっているという。
ここで自動車を例にとろう。
伝統的に「速く・長く走れること」を軸として機能的なステップアップを遂げてきた自動車は、法定範囲を超えた速度と壊れる前の乗り換えを可能にする耐久性の実現と同時に、機能的なバージョンアップの意義を激減させた。そのあとは、微細なデザインチェンジ、カラーバリエーション、オプション仕様などが差異化の軸となり、「アクティブなスポーツカー」「大人のセダン」「情熱的な赤」や、「ラグジュアリーな黒」など、様々な記号的な意匠が上塗りされていく。

同じ様に、「ピアノを買うこと」は、「ピアノのある山の手風の豊かな生活」を意味し、「ボブ・ディランのレコードを聞くこと」は、「体制への反抗」のメッセージを運ぶ。その記号的メッセージは売り手・買い手へ、そして買い手同士を回っていき、差異のネットワークを形成していく。

こうした記号的な消費にとって、実際に豊かであるかどうかや、現実として体制へと反抗しているかどうかは問題ではない。ディズニーランドが現実と全く関係のない歴史や場所をごちゃ混ぜにするように、重要なのはあくまで記号的なメッセージが創りだす差異のほうだ。そうした記号的な差異のシステムは「機能と効用」の時代の後に、市場に需要を創りだす役割を担ってきた。
そこにあるのは、前回紹介したヴェブレンの顕示的消費のような見せびらかしの論理だけではない。「ムダをはぶいた、シンプルなファッション」も、「内面の清楚さと上品さ」を示す記号としての意味を背負う。一見して非-消費的に見える慎ましい消費活動もまた、記号消費の一部としてしか存在しえない。世捨て人にならないかぎり抜け出すことはできないこの構造が、ボードリヤールが鮮鋭に描きだした「消費社会を生きる」ということの意味である。

記号消費論の広がりと衰退


このように広い射程を盛ったボードリヤールの記号消費論は、マーケティング、社会批評などの広い文脈で参照され、話題を振りまき、応用的な業績も多く生まれたⅱ)

しかしその一方で、言論市場の中での記号消費論の盛り上がり自体は、徐々に沈着化していく。ブーム期を終え議論として定着したとも言えるし、記号消費論も所詮市場に「消費」されたのだと断ずるのも良いが、もう少しその由縁を考えてみると、今回のエントリテーマである、消費と〈私〉というトピックに接近するヒントが得られる。

実は、記号消費が前提していたのは、意味やメッセージが伝わるための共通の基板であった。消費が記号的なコミュニケーションであるためには、受け手と送り手(それは買い手と売り手でも、消費者と消費者の間のコミュニケーションでもありうる)の間に一定の共通前提が必要になる。
例えばボブ・ディランのレコードを「体制への反抗」と読み解くためには、時代的背景やディランのキャラクターについてある程度の知識が必要になる。ピアノを買うことが「山の手の豊かな生活」を意味すると言っても、「東京山の手」のもつ特別感が都市化によって薄まれば、その地域でよく買われた「ピアノ」と「豊かさ」を結びつける意味論的つながりは薄まらざるをえない。
そして、人々がマスとして生きた大衆消費社会から、「多彩な生(活)」への変遷の中で失われていくのは、何よりもその共通前提だった。マーケットは、マテリアルな伸びしろの代替として記号消費によって「意味」という差別化のフィールドを手に入れたが、同時に、その記号の多様性は記号が流布するための共通の基盤をも失わせてしまう諸刃の剣だったわけだ。

最後の物語としての〈わたし〉


 こうして消費の空間は、「島宇宙化」「トライブ化」と呼ばれるバラバラの趣味の空間へと閉じていく。それらは互いに干渉することなく、個人が幾つかの島宇宙を渡り歩いていく消費行動が一般的になっていく。反骨精神に満ちたパンクロックのライブで気炎を上げ、会社では量販店のスーツに身を包み、サブカル好きの恋人とは中野まんだらけで楳図かずおの初版本を買い漁る。こうしたバラバラのテイストを飛び回るのは、いまや日常の光景だ。
この無秩序な趣味空間には、一貫した記号的差別化など通用するわけがない。しかし、かといって物質的なイノベーションには限界がある。そこで共有されうる最後の物語として持ち出されるのが、〈わたしらしさ〉という物語であるⅲ)
ただし、ここで共有される〈わたしらしさ〉とは、具体的内容をもった物語ではない。どんな購買をしようとも常に世界の中心であり続ける、自己という特別な「形式」である。共有前提を失って具体的な物語(記号的差異)が通用しなくなったあと、「主人公」だけが取り残されたと考えるとわかりやすい。

〈私〉探しゲームとマーケット


そして、この〈わたしらしさ〉は、市場にとってきわめて都合のよいファクターとして今現在もっとも持て囃されている記号である。ここではその所以を以下の3点から考えてみたい。
   1. 〈わたしらしさ〉の多様性
   2. 〈わたしらしさ〉の排他性
   3. 〈わたしらしさ〉の循環性
1.〈わたしらしさ〉の多様性
商品を生産する企業にとって、〈わたしらしさ〉は無数のバリエーションの原産地のようなものだ。一人の人が一つのライフスタイルを一貫させるよりも、多くの趣味を渡り歩いたほうが、売る商品の種類と数は増えていく。

2. 〈わたしらしさ〉の排他性

〈わたしらしさ〉は周りの人にとって「意味がない」もので構わない。島宇宙を飛び回る消費者にとってたった一つ重要な問題は、「良いか悪いか」ではなく、自分がそれを「好きか嫌いか」だ。商品を買うのに他人に説明するための理由は要らない。それまでの基準で見れば「ナシ」な商品――例えば機能が劣化した商品や反社会的な商品――でも、〈わたし〉が「アリ」と判断すればそれは「アリ」になる。

3. 〈わたしらしさ〉の循環性

〈わたしらしさ〉の追求に、最終的なゴールはない。多様なライフスタイルを許容する優しい社会は、ライフスタイルに対して決して正解を教えてくれない厳しい社会でもある。正解は自分が〈わたしらしさ〉を築いていくプロセスの中にしかない。その結果として、新商品が出るたびに新たな〈わたしらしさ〉が生まれていくという奇妙な循環が成立することになる。
こうした多様性・排他性・循環性をもつ〈わたしらしさ〉の新機軸によって、生産者は「さまざまな」「わたしだけ」に響くような商品を「永遠に」創りだすことができる。商品に微細なマイナーチェンジを施しつつ、「これがあなたらしいですよ?」「このイメージなんかあなたに似合うのでは?」と問いかけながら、 " You are What You Buy." の論理を推し進めていく。
こうして消費者は〈あなたらしさ〉の記号と戯れるように「自分だけの個性」なるものの影を追いかけるようになった ⅳ)。社会学者上野千鶴子は、こうしたぼんやりとした〈わたしらしさ〉を求める消費者たちの振る舞いを「〈私〉探しゲーム」と指し示した(上野1992)。

〈私〉探しゲームに出口はあるか


しかし、このゲームをやりこなすのは、かなりの高難度だ。
いかに他の人と違う自分を探そうとしても、〈わたしらしさ〉を求めている点では他の人と同じ。人とまるで同じなら「無個性」で印象が薄くなり、人と違いすぎれば「ぶっ飛んでる」と変人扱いされる。
結局のところ、「人と少し違う」物を「皆」が求めていくというアンビバレンスな振る舞いに落ち着かざるを得なくなる。多様性にあふれた均一性。既視感を感じる新しさ。就職活動の「自己分析」で苦労する学生の姿は、このアンビバレンスの中で一貫した自己を表明することの困難さを端的に示しているようにも見える。
そのゲームの空虚さに気づいて、You are What You Buy. の論理にいくら反抗してみせても、自己決定を強いられる豊かな消費社会では、You are What You Buy. に反抗する〈わたし〉として〈私〉探しゲームの中に回収されてしまう。
この空虚で豊かな〈わたし〉と消費の追いかけっこを経て、未来の消費者はどのように進化していくだろうか。定量的調査では、若者らの乖離的なアイデンティティ傾向が示されつつあるⅴ)。その具体的な姿はこれから明るみになっていくとして、いま言えるのは、そこでの変化の単位になっていくのはやはり未来においても〈わたし〉なのだろうということだ。

【参考文献】

Baudrillard , Jean, 1970, "La Soci?t? de consummation"(=1995、今村仁司・塚原史訳『消費社会の神話と構造――普及版』紀伊國屋書店。

浅野智彦、2005、「物語アイデンティティを越えて?」上野千鶴子編『脱アイデンティ』勁草書房

東浩紀、2001『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社新書.

上野千鶴子、1992、『増補〈私〉探しゲーム』ちくま学芸文庫

大塚英志、1989、『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』新曜社.

三浦展、2005、「消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」」、上野千鶴子編『脱アイデンティ』勁草書房


ⅰ)建物の建築様式だけ見ても、ヴィクトリア様式からアールヌーボー、アールデコ、バロック、イスラム、ゴシック、ロマネスクと、宗教も時代も異なる意匠がめまぐるしい程にミックスされて散りばめられている。ディズニーリゾートは多彩な建築様式を同時に見れる日本でも有数の建築スポットでもある。


ⅱ)80年代終わりごろには、評論家・編集者の大塚英志がボードリヤールの論を発展させ、消費者自身が記号的な差異を物語のように編みそれに欲望していく〈物語消費〉という概念を打ち出した(大塚1989)。それを受けた批評家の東浩紀は〈データベース消費〉なるモデルでオタク的な消費活動の構造の変化を論じることになる(東2001)。


ⅲ)注意して欲しいのは、記号消費から「わたしらしさ」の消費への移行ではない。ボードリヤールも個性を論じていたように、「わたしらしさ」も記号的なメッセージであることには変わりはない。ここでの論点は、その記号的な内容(の空虚さ)の特殊さのほうである。


ⅳ)三浦展は、こうした自分探しにのめり込んでいく消費者がたどる具体的傾向を3つ掲げている。自分らしさを求め強迫的に買い物をつづける「消費中毒」、レトロなものや高級老舗ブランドを求める「永遠志向」、ヨガや自己啓発のように自分自身を変化させるようなサービスへと投資する「自己改造志向」である(三浦2005)。いずれもまだ直感的カテゴリ区分ではあるが、定量的に精査しても面白いかもしれない。


 ⅴ)浅野智彦や辻大介ら、また、NHK放送文化研究所による調査によって「自己を一貫させるべき」という規範は若者を中心に薄まってきていることが示されている。(浅野2005)やNHK放送文化研究所「中学生・高校生の生活と意識調査」(2002年)を参照のこと。