株式会社ジャパン・マーケティング・エージェンシー
フィールドワーク部  小林祐児(コバヤシ ユウジ)

マイ・バック・ページの「隠蔽」


前編と同じく、映画『マイ・バック・ページ』から入ろう。
実は、ルポライターの沢田(妻夫木聡)が行っていたテキ屋コミュニティへの潜入調査の方法には、社会学・人類学そして市場調査の行う参与観察との間に決定的な違いがある。
前編では触れなかったその違いは、「観察者が・被観察者にたいして・どのような立場を表明するか」という点にある。沢田は、テキ屋のルンペンたちに対し、ジャーナリストである自分の身柄を隠しながら調査を行っているのである
言わずもがなだが、学術的な目的の調査そしてほとんどの市場調査においても、この種の「隠蔽」は倫理的に許されていない。エントリ後編では、この参与観察における「隠蔽」を間口としつつ、社会学における「役割role」概念を導入することで、議論の裾野を広げてみることにする。
社会学における「役割」概念


社会には、法律や規則として明文化されてはいないものの、人々に対して一定の拘束力を持つ規範が存在する。「医者は、医療の現場において真摯な態度を保ち全力で治療に当たるべき」「野球部のキャプテンは、部員の意見を取りまとめ、リーダーシップを発揮するべき」など、特定の社会的立場に付随するさまざまな規範を、社会学は「役割(規範)role」と呼んできた (ⅰ)
一人の個人は、いくつもの役割を担うのが一般的である。
たとえばAさんは、オフィスでは一課の「課長」として円滑に業務をこなすことを求められるが、飲み会では「陽気でお喋りな人」として盛り上げ役を買ってでて、日曜日は「父親」としての役割を担い、子供を動物園に連れて行く。人々は、年齢・家族・組織・性格など、文脈に応じたさまざまな役割規範を内面化しながら、日々の暮らしを営んでいる。
このような「役割」自体は、日常的な言葉としてわれわれも慣れ親しんだものである。そこで、社会学が「役割」概念を扱うときの独特の視点を、ここでは2つだけ挙げておきたい。


□ 社会学における〈役割〉(1)――「外部の無さ」

電車の中での情景を思い浮かべてみる。
われわれは、同じ車両に乗り合わせた人々と適度な距離を保ちながら、話しかけることなく――かといって存在しないものとして振る舞うのでもなく――駅で下車するまで、ぬるま湯のような無関心を装っている。
アメリカの社会学者E.ゴフマンが「儀礼的無関心」と名付けたこの特殊な「無関心」も、乗り合わせた人々がみな「乗客」という役割を従順に守ることの結果として現れる(Goffmann, 1963=1980)。その「無関心」の障害となるような行為――メイクをしたり、大声で電話をかけたり――を目にしたとき、つまり「無関心さを自然に装うことができなくなる」とき、人はその行為を「乗客」としての役割規範への違背とみなし、狼狽し、時に怒りを露わにする。
このように、われわれは、社会的営為において「役割」から解放されること、その外に出られることはほとんど無い。「自己」や「アイデンティティ」といった完全に個人的に見える事柄も、何らかの社会的役割を基礎としながら形成されていく。役割現象のこうした「外部の無さ」が、社会学的な役割概念の特徴の一つである
□ 社会学における〈役割〉(2)――行為可能性の「増大」
ここまでの話で「役割規範」は、状況におかれた人々の行動を制限し拘束する、檻のようなものに感じられたかもしれない。しかし、社会学にとって「行為の制限」は役割現象の一つの側面でしかない。役割は、人の行為を促進させる作用も果たしている
例えばオフィスにいるとき、「課長」として振る舞うべきか、「父」として振る舞うべきわからなければ、次に何をするか決めることはできない。「店員」と「客」という役割を欠いていては、店で「買い物」をすることができないのと一緒である。
またR.K.マートンが「社会学的アンビヴァレンス(sociological ambivalence)」と呼んだように(Merton 1963=1969)、2つ以上の相反する役割規範同士が拮抗し、ジレンマに陥ることもある。「仕事と私、どっちが大事なの?」の問いが答え難いのは、「サラリーマン」としての役割と「恋人」としての役割の相反する規範を同時に要求されるためである。
こう見ていくと、「課長」「客」「店員」「恋人」といった明確に区分された役割規範は、各状況におかれた人々に対し行動の指針を与え、行為を「可能にする」ものとしてみることができる。上の電車の例をとれば、「乗客」としての役割を内面化しているからこそ、人はメイクをするギャルに対して「怒りを覚えることが〈できる〉」とも言えるのである。
役割規範の作用を、行為可能性の「制限」としてだけではなく、「増大」として捉えること。このことを、〈役割〉に対する社会学的考え方のもう一つの特徴として挙げておく。

参与観察における異人という〈役割〉


そしてもちろん、アカデミックな視線を携えた観察者であるフィールドワーカーもまた、対象者に対して透明な存在でいることはできず、何らかの「役割」を負う形で、対象者と対峙する
京都の暴走族・右京連合の参与観察を行った佐藤郁也は、調査開始当初、若者たちから「カメラマンさん」と呼ばれ、写真集に自分たちを載せてくれる人のように思われていたという。困った佐藤は苦肉の策として「インタビューマン」というあだ名を自ら設定し、徐々に立場を変えていったことをその後の自著で告白している(佐藤2002)。
アウトサイダーというアンフォーマルで難しい対象者を対象にしたフィールドワーカーらは、参与の度合いや置かれた状況、会話相手などによってフォーマルな「研究者」や、内情を教わる「見習い」「弟子」、そしてより近しい「友人」「相談相手」など、姿と様々に役割を変えることになる。そして広い意味では、調査を行っていることを表明する限り、そのコミュニティにおいての「異人stranger」としての役割を認めることになる。いくらコミュニティに馴染んでいるつもりでも、聞いた話の備忘のために調査メモを取り出す瞬間、「異人」としての姿は顕になる。

問い――野郎どもに対してどの「わたし」であるべきか


そして、しばしば問われてきた問題は次のようなものだ。はたして、『マイ・バック・ページ』における沢田のように、こうした異人としての役割を「隠蔽」し、被観察者のテキ屋たちと同列の「仲間」として接することが、調査にとって最善の策なのだろうか。フィールドワーカーの不自然な「異人」としての役割は、客観的観察を妨げるバイアスの元なのだろうか
二者択一の普遍的な答えはおそらくないが 、社会学的な役割規範が「可能性の増大」を意味していたことを思い出せば、この硬直気味の問いをすこしは解きほぐすことができる。肝要な点は、このような異人としての「役割」が、観察者と対象者の間に「新しい言葉」を生んできたことである(ⅱ)
どんな人間関係にも「他人に説明する」というコミュニケーションによって初めて言語化されるような、暗黙の知識やルール、想いや感情がある。一見不自然な「異人」という役割は、それを担うことによって暗黙の知識を「聞き出す」というコミュニケーションを自然にとることを可能にし、対象者からみれば、知識の少ない素人に「教えてあげる」ことを可能にする。この異人という「役割」を経由することによって「初めて」可能になったコミュニケーションによって、言語化される知識の領域があること。これは、先述の問いを考えるときに忘れてはならない一項である。
例えば英語という言語について、「英語の知識は、知っている英単語の量に比例する」とは単純に言うことはできない。単語の知識量はそこそこだとしても、文法や言語としての成り立ちを説明できることのほうが英語を「知っている」とも言える。
観察者の任務は「単語」をたくさん蓄えている対象者たちから、単語からだけでは見えない「文法」を説明可能なものとして浮かび上がらせることにある。フィールドワーカーたちが仮面を付け替えるように様々な「役割」を対象者の前で担ってきたのも、こうした「文法」を言語化しようとする創意工夫の現れであると言える。


マーケティング・リサーチと〈役割〉

マーケティング・リサーチはミステリーショッパーなどの一部の例外を除けば、伝統的に「質問者」と「回答者」というフォーマルで固定的な役割を自明の前提として成立してきた。それは「調査者としての立場を明らかにする」という事以上に、「問う者/答える者」という調査におけるコミュニケーションのあり方も規定してきた。最たる例が「質問票」の形式である。
そして近年話題の「Asking からListeningへ」という標語(萩原雅之氏)や、ネット上で参加者の自由な発言を促すMROCといった新しい手法には、こうした固定的な「問う者/問われる者」の役割に柔軟性を持たせ、既存の調査法(によるコミュニケーション)では明らかにできなかった消費者の性質を知ろうという方向性が緩やかに共有されている。
そして、この「役割の柔軟性によって発掘される対象者の性質」こそ、フォーマルな役割が通用しない「野郎ども」へと接近するフィールドワーカーたちが追い求めかつ発見してきた事、正にそのものである。


次のエントリに向けて――役割と「氾濫するわたし」


先ほど、社会学的な役割の特徴の二つ目として「外部の無さ」を挙げた。そこで述べたように、社会学はあらゆる役割から解き放たれた「本当の自分」や「真の自己」の存在を想定しない傾向にある (ⅲ)。もっと言えば、社会学は人のアイデンティティを「他者」と密に接合しているものとして論じてきた歴史を持つ。
そしてその社会学が想定しない「(真なる)私」は、80年代以降のマーケティング論・消費社会論のキーワードとなってきた言葉でもある。今でも街を歩けば「自分らしさ」「私らしく」などのコピーがそこら中にあふれているのに気がつく。社会学的役割論の認識利得は、こうしたマーケットで連呼される「私――らしきもの――」から距離を取り、「市場の言葉」とは違う別の回路から、この氾濫する「わたし」という現象を捉えることにもある。
社会学的な(役割概念の応用としての)「自己論」と、消費社会における「私らしさ」。この2つのキーワードを投げ出しておいたところで、次回のエントリに譲る文字数となった。
【参考文献】
佐藤郁哉、2002、『フィールドワークの技法―問いを育てる、仮説をきたえる』新曜社
萩原雅之、2011、『次世代マーケティング・リサーチ』ソフトバンク・クリエイティブ
Goffman, Irving, 1961=1985『出会い―相互行為の社会学』 誠信書房
――――, 1963=1980『集まりの構造』誠信書房
Merton, Robert King, 1963=1969 『社会理論と機能分析』青木書店


(ⅰ)社会学における「役割」概念は、幼年期から青年期にかけての人の社会適応(社会化)とセットで語られてきた経緯がある。子供は、「お医者さんごっこ」や「お花屋さんごっこ」などの「ごっこ遊び」で役割期待を内面化することを学習し、さらに野球などの「ゲーム遊び」で複数の他者の役割を組織的に理解するステージへと進んでいく。詳しくはG.H.ミードによる古典的業績『精神・自我・社会』(青木書店)を参照されたい。
(ⅱ)「参与」の度合いが強ければ強いほど、自然で歪みのない観察ができるかというと、問題は決してそう単純ではない。そうした過度の信頼関係は「オーバーラポール」問題としてしばしば非難されてきたし、前回挙げたホワイトやウィリスの参与観察も、そうした批判の対象となってきた。
(ⅲ)確かに、人々は社会的役割を従順に守っているばかりではない。課長はオフィスで部下に「最近奥さんとの仲はうまく言ってるか?」と課長の役割とは関係のない声かけをしたり、医者は手術の直前におどけてみたりする。しかし社会学はそれらもある一般化された役割から「はみでる」自分を演出することによって自己の独自性を表現しているのであり、それもまた役割規範の作用圏内の事象として分析する(ゴフマンはこれを「役割距離role distance」と概念化し仔細な考察を加えている(Goffman, 1961=1985)。)